『秋篠宮さま』の中身~秋篠宮様の肉声編 5

今回は江森氏の『秋篠宮さま』より、第五章の宮様の肉声をご招待したいと思います。

第五章 外国との交流

<大学の時、私が主宰する形で自然文化研究会というサークルを作りました。顧問には、高校でお世話になった学習院女子大学教授の高橋新太郎さんと原島春雄さん(元学習院大学教授)にお願いしました。それからあと私の個人的に知り合いだった人たちに声をかけてタイに行きました。初めてのタイでした。
昔、王朝のあったスコータイという場所がありますけれども、そこで知事が主催する、遺跡の仲のバンケットがありました。その時、『飲み物は?』と聞かれて、『ウイスキーを下さい』と頼みました。そしたら≪メコン≫(タイのウイスキー)のソーダ割りが出てきました。赤木先生(赤木攻大阪外大教授・自然文化研究会の顧問を務めるなど宮さまと親しい)が『あ、これがメコンや』と言われた。飲んだらとても飲みやすかった。初めは、≪メコン≫というのはまずいお酒だという話しか聞いていませんでした。ところが、飲んだらすごくおいしいので、それでしっかり好きになってしまいました。これが≪メコン≫との出会いです。
自然文化研究会の普段の集まりというのはありません。会員たちの学校がみんなバラバラですから、春と夏に親睦旅行をやるぐらいです。タイを選んだのは、今まで行ったことがなく、また、興味がありましたから。私の希望でした> P127~128


秋篠宮様とタイの初めての関わりについて述べられています。秋篠宮様とタイのつながりは、あの自然文化研究会サークルから始まったようですね。この時から既に、秋篠宮様のお取り巻きの一人である赤木攻教授がしっかり関わっていたとは…。

<アユッタヤーの手前にあるバーンパインという昔の離宮に行きました。そこにはかなり大きなお堀がありまして、魚が泳いでいるのです。よく見ましたらテッポウウオでした。口から水鉄砲のように水を発射して、空中の虫を射落として食べる魚です。
歩いているうちに橋があって、そのそばでパンを売っていました。魚のエサだと言うのですね。三、四斤もある大きな塊です。ちぎってあげようとしたら、そのまま投げ込めと言われた。そこで大きな塊を放り投げたら、下からなにか出てきてひとのみにパクッと食べてしまったんです。東南アジアにはこんなすごい魚がいるのかと感心しました。それからタイに興味を持って仕事をするようになりました> P130


秋篠宮様、またここでも「タイに行くこと」を「仕事」と言い切ってしまっていますね。秋篠宮様の研究旅行はいつも私的旅行扱いであり、「仕事」などという理由で公的扱いされたことなど一度もないはずです。そもそも、秋篠宮様がクリントン大統領の晩餐会よりもタイ行きを優先したことが批判された理由も「晩餐会は一国のVIPをお迎えする公務であるのに対し、タイ行きはあくまでも私的な研究旅行だったから」ということが主でした。しかし、秋篠宮様ご自身の中では、研究は私的活動ではなく「仕事」なのですね。
そういえば秋篠宮様は幼い頃の眞子様や佳子様を連れて動物園に行くことすら「私にとってはある意味では仕事のようなもの」と言ってましたっけ(秋篠宮様の肉声編3をご参照ください)。
秋篠宮様は今も昔も、ご自分の“趣味”の範疇で動いていることを「これは仕事だ」と言って忙しくしているフリをなさるのがポリシーなのでしょうか。今後、秋篠宮様の「公務」を検討していくに辺り、秋篠宮様のこういう考え方(あくまでも「仕事」と言い切る)はかなり参考になると思われます。もちろん、あまり良い意味ではなくて。

(近藤典生博士との思い出について)
<伊豆のシャボテン公園などを作られましたが、普通の方と発想が違います。例えば、ある植物を植えると、同じ生態系の鳥やチョウを一緒に放し飼いにしたりとか、見ていてとても楽しくなります。
先生との一番の思い出は、インドネシアのニワトリ調査のときにコモドオオトカゲに乗ったことです。先生が『大丈夫だから乗りなさい』と言われたから乗りましたが、オオトカゲはとてもやわらない感触でした。でも、このオオトカゲは、私が降りて、また放飼場に放されたとたんにエサのニワトリだったかアヒルをバリバリと食べていました。乗った時に襲われなくて良かったとホッとしました。
先生から教えられたことで思い出すのは、名誉博士号はもらおうと思えばいつでももらえるだろう。やはり自分で論文を仕上げて博士号を取りなさいということ。それから現地に行って自分の目で動物や植物がどのような暮らしをしているのかを確かめなさいといわれたことです> P135~136


近藤典生博士は、財団法人進化生物学研究所理事長・東京農大名誉教授であった人です。タネなしスイカなど品種改良の分野で活躍し、秋篠宮様と一緒になる機会も多かったとのことですが、1997年1月に亡くなられたとのこと。秋篠宮様の例の博士号の授与式会場にも顔を出したようですが、この頃から体調がすぐれず公の場に現れたのはこれが最後であったとのことです。
近藤博士は、上記博士号云々の発言からも推測できる通り、秋篠宮様の博士号論文「ニワトリの起源の分子系統学的解析」の共同研究者の一人として名前を連ねています(当ブログ「ハリボテ博士号その5」をご参照ください)。
その共同研究者の一人が秋篠宮様に「自分で論文を仕上げて博士号を取りなさい」とアドバイスしたとのことですが、彼は共同研究者として秋篠宮様にどれくらいの協力を行ったのでしょうか。
しかしこうして改めて見ると、秋篠宮様の博士号取得にはその道の権威が多くついていたということが分かります。秋篠宮様お一人だけでは決して書くことのできない論文だったのではないでしょうか?
それにしても「オオトカゲがエサのニワトリだったかアヒルをバリバリ食べた」って…仮にもニワトリの専門家(笑)なのに、ニワトリとアヒルの区別もついていないんですか?とちょっと思ってしまいました。まあ、一瞬でエサを食べてしまったので見分けがつかなかったのかもしれないと解釈しておきますか(笑)。

<例えば、ここ(秋篠宮家)にタイのシリキット王妃から電話がかかってくることもあります。また、私からタイに行く前に、分からないことがある時など、逆に王妃にお電話を入れて教えていただくこともあります。王妃からのお電話の場合は、前もって、在日タイ大使館の秘書あたりが、私にこの時間なら自宅にいるかどうかの確認が入ります。
また、私から電話をかける場合は、同様に王妃がおられるかどうかわかりませんので、それでおられるかどうか、ご都合を聞いたうえで電話を入れます> P138


シリキット王妃は、昨年亡くなったプミポン前国王(ラーマ9世)の妃です。秋篠宮様がシリキット王妃と「直電」するような間柄であることは知りませんでした。プミポン前国王と秋篠宮様との間柄はどうだったのかは不明です。

<タイに限らず、外国の王室との今のような素晴らしい関係がずっと続けばいいと思います。次の世代ですが、例えば、ベルギーですと、今のフィリップ皇太子が、兄と同じ年です。オランダの皇太子は、むしろ私に近いです。私より二つぐらいお若いのではないでしょうか。スペインの皇太子も、私よりお若いです。ルクセンブルクは、少し上ですけれど、そんなに、年齢的には違いません。ですから、今後も皇室と外国の王室との良好な関係が続くことを願っています> P141

宮様の上記肉声ですが、一瞬ご自身が世界の王族と懇意にしていると言っているように見えますが、実は「あそこの王族は私と年齢が近い」ということを話してるだけですね。王族の年齢は調べれば分かることですが、ほかに具体的な懇意エピソードはないのか?と思ってしまいます。むしろ年齢しか話すことがない点が、かえって秋篠宮様と世界の王族との関係の希薄さを物語っているように見えてしまうのです。

<私は、公式、非公式の訪問にかかわらずたいていメモ帳をポケットに入れて持ち歩いていて、カッコ悪いとは思いますが、面白いなと思ったり、新しい情報が得られた時とかに取り出してメモすることにしています。もともとは学生のころによく写真を撮っていたので、あとで写真を整理する時に間違えないように、その時の状況などを書き込むために持ち歩くようになったのです。
ニワトリの調査の時などは、大体、夜の間にそれを整理します。夕食でレストランに行く前とか、帰ってきてすぐにします。公式訪問の時は、あまり厚いものは持ち歩けないので、小さいものをポケットにしのばせておいて、部屋に戻ってから別のノートなりパソコンに浄書します。あとで調べ物をする時に楽ですから> P146


まあ、何に関してもメモをとる習慣を付けること自体は良いことだと思います。
秋篠宮様がカメラや写真好きだということは割と良く耳にするエピソードですが、その割には私は秋篠宮様の写真の作品を見たことがないように思います。皇太子殿下は宮内庁の文化祭で風景の写真作品をよく展示されていますが、弟君はそういう話をあまり聞きません。

(第五章終わり)

『秋篠宮さま』の中身~秋篠宮様の肉声編 4

今回は江森氏の『秋篠宮さま』第四章から、宮様の肉声を抜粋したいと思います。

第四章 研究生活

<私がどうしてニワトリに興味を持ったかというと、小さいころに読んだ動物図鑑に家畜の出てくる場所がありました。馬とかヤギとか、そこにニワトリも載っていました。その中にコーチンというニワトリを見つけました。名古屋コーチンのもとになった品種ですが、脚のところに羽根がたくさんあるニワトリです。なんだかとても気にいって飼いたくなったことを記憶しています。
でも、その当時は、探したけれどもコーチンは日本にいなかった。本物のコーチンに近いということもあったんでしょうか、いわゆる『名古屋コーチン』を、父に手に入れてもらった。それがニワトリを飼い始めた最初です> P99


秋篠宮様は「小さいころからニワトリには興味があった」と述べられていますが、国民は今でも「秋篠宮様」と聞けば「ナマズ」を連想する人の方が圧倒的に多いのではないかと思います。それがいきなり「ナマズ」でなく「ニワトリ」の研究家になってしまっているのですから「ナマズの存在とは一体何だったのか?」と思わずにはいられません。

<動物に対して怖いとか、抵抗があるということは、小さいころからなかった。例えば、幼稚園のころウォーター・モニター(コモドドラドンに次いで大きくなるトカゲ)という一・五メートルくらい(来た当時)のオオトカゲを両親がおみやげに持って帰ってきてくれて、家族で飼っていたこともある。父はもちろん大丈夫。母もそれほどいやだということはなかったと思う> P101

お土産に生きたオオトカゲ…いや別にいいんですけどね…しかし今上陛下はともかく、美智子様も爬虫類が大丈夫とは意外な感じがします。

<育った環境だと思う。父も魚類だけではなくて、生物全般にすごく興味がある> P102

<小さいころ毎年、浜名湖へ、夏に、湖水浴をしに行っていました。朝に、家族で定置網を見に行くと、いろいろなお魚やカニが捕れます。ある時、その中に、ハモがいて、船のデッキの上をはっていました。口を開けており、鋭い歯がよく見えました。私の兄が火ばしをそのハモの口に入れて遊んでいた。それをまねすればよかったのに、私は自分の指を突っ込んで、そのままかまれてしまった(笑う) >P103

最近は、三年前に道をはっていたアオダイショウを捕まえようと思って、かまれました。手で首のところをパッとおさえようと思ったんです。そうしたら向こうのほうが一枚上で、素早くかんだ。この辺ですね(右手の指を見せる。殿下によると右手で首をおさえ、左手でさらにしっぽをおさえて捕まえるつもりだったという)> P104

<その時は、玄関にヘビを置いておくと、ウチの子供たちが見て興味を持ってくれるかなと思いましたけれど、ヘビに関心を持ったかどうか> P105


秋篠宮様が生き物好きで、落ち着きをなくししょっちゅう噛まれたりするのは別に構いません。が、玄関にヘビが置かれているような家なんて、私なら帰りたくなくなります(笑)。果たして眞子様や佳子様の反応はどうだったのでしょうか。いくら自分がヘビを含めて生き物が好きとは言え、苦手な人の方が圧倒的に多いヘビを子供たちにも見せびらかすような父親なんて嫌です。

<動物というものがあまりにも身近で、今まで意識しないできましたから、動物といるとホッとするということは確かにありますね> P105

<仮設でも予想でもなにかを立てておかないと、ゴールが見えないところを一生懸命、馬を走らせていることと同じになる。最初にある程度ゴールを作っておき、そこに向かって走るほうが効率的だと思う。そのためにはどういうことをしたらいいかを考えて、それで仕事を進めて行く> P109


秋篠宮様、一見すると知的で立派なことを述べられているように見えますが、宮様のおっしゃる「ゴール」というもの、果たしてどなたが作って用意しておくのか…秋篠宮様の論文にはその世界での権威たちが何人か関わっているとのことですが。ほかの人が用意してくれたゴールなら、それに向かって進むのはそれほど困難なことではないかもしれません。

(英国留学について)<昼しか食べないという生活でした。朝は、ジュースかヨーグルトぐらい。お昼になると博物館の研究室を出て自分のアパートまで行くちょうど中間か、それより少しアパート寄りにパブがあり、そこで、食べて一回部屋に戻って、くつろいでから博物館に戻った。
夜は、九時くらいまで、博物館にいた。それで、結局、食事をするのが面倒くさくなってしまった。従って夜は、部屋に帰ってビールを飲んで、いろいろな本を読んだり、残っている仕事をしたりしていた> P113


<私の場合は昭和天皇のご病気の関係で合わせて一年半ぐらいしか留学期間がなかった。一年半の間でできることというのは、かなり限られていた。できるだけ起きている間の時間は自分の仕事のために有効に使おうと思った。それこそ寝る時間が惜しかった。
楽しみはやはり、ニワトリの写真を撮りに行くことだったし、仕事をしていること自体がとても楽しかった> P114~115


秋篠宮様は、ニワトリの研究について「仕事」と言い切ってしまっていますが、これには違和感を覚えました。秋篠宮様はご自分の研究を「私的な活動」でも「趣味の範疇」でもなく、「仕事」と思い込んでいるということが伺えますが、それは違うのでは?と思ってしまうのです。
昭和帝は植物について、今上陛下は魚類について、皇太子殿下は水や運河について、常陸宮殿下はガンについて、三笠宮殿下はオリエント史について、皆様それぞれ研究をなさっていますが、上記の方々はただの一度もご自分たちの研究を「仕事」などと言い表したことはないのではないでしょうか。あくまでも「私的活動の一環」としての位置付けだと思うのです。
それなのに秋篠宮様はニワトリの研究を「仕事」と表現し、ご自分をプロの研究家・専門家と思い違いをしてしまっているように思えます。

当ブログでも既出のように、秋篠宮様はそもそも算数や数学が大の苦手であり、進路先も法学部政治学科であって大学で専門的に生物を学んだわけではありません。ニワトリの博士号も「その世界の権威たち」の多大な協力により得たものにすぎません。
常陸宮殿下は学習院大の理学部化学科を卒業され、また東大大学院で動物学を専攻されたまさに「正統派な理系学歴の方」ですが、それでもご自分の研究を「仕事」だとおっしゃったことは一度もないのではありませんか?
それなのにマスコミは秋篠宮様だけを「動物の専門家」と評価し、常陸宮殿下の研究についてはスルーするという偏りのある報道をしているように感じられます。

秋篠宮様の「自分の研究=仕事」発言を知ってしまうと、宮様は研究で海外に行かれる時も「私的旅行」ではなく「仕事で行く」という認識なのか?と思ってしまいます(宮内庁HPでは「私的旅行」扱いとはなっていますが)。

(第四章終わり)

『秋篠宮さま』の中身~秋篠宮様の肉声編 3

7月8日は本来なら眞子様と小室圭さんの婚約会見が行われる予定でしたが、九州の豪雨被害のために会見を延期することになったとのこと。死傷者や行方不明者も多数出ており賢明な判断をされたと思います。
今日は再び秋篠宮様の肉声を振り返る回となりますが、タイミングよく秋篠宮ご夫妻の結婚あたりの肉声となりました。眞子様の会見が延期されて何ですが、お父上はご自分の結婚について当時何を考えていたのか?ということを振り返ってみたいと思います。

第三章 結婚前夜

<結婚の時、一部のマスコミで家内と結婚させてくれなければ私が皇籍を離脱すると両親に迫ったという報道がありましたが、あれは完全に作った話です。私は、知り合った直後に家内を両親に紹介し、両親は付き合っていることは知っていましたし、結婚するんだろうなということもおそらく分かっていたと思います。また、結婚する相手が彼女だったらいいな、というふうに思っていたと思います> P79


秋篠宮様ご本人はこう主張していますが、それでは「皇族やめてやる」発言も「火のない所に煙が立った」とでも言いたいんでしょうかね?秋篠宮様は以前も皇太子殿下との待遇差に不満を抱いて「皇籍離脱したい」と言ったことがあると記事にされたことがありますね。その時の発言と混同された?という見方もできなくはないですが、美智子皇后陛下と紀子妃で秋篠宮様を説得して「皇籍離脱」の考えを改めさせようとしたというエピソードもあったとか何とか…
それから上記の秋篠宮様の肉声後半部分ですが、あくまでも「両親は~と思っていたと“思います”」という、宮様の主観に過ぎないんですよね。両陛下が本当はどうお考えであったかは断言できないわけです。
しかし、最終的には両陛下がGOサインを出してしまったからこそ、秋篠宮ご夫妻の結婚が許されてしまったわけですが…

<家内からのOKの返事はいつだったのか。はっきりした返事ではありませんでした。自然にそのままというか、私もよく覚えていません> P82

結婚するうえで、例えば相手が旧華族の出身でなければいけないなどの制約や条件は全然なかった> P82

これも後付けな言い訳の感じがします。秋篠宮様も本来は良家のお嬢様とお見合いの予定があったという話も聞いたことがありますし、最初から(一般家庭出身の)川嶋紀子さんでOKという雰囲気だったというのは疑わしいです。
また、もし仮に秋篠宮様の結婚相手に制約が何もなかったのであれば、それはお母様の美智子皇后陛下が民間人出身だったので今更そんな制約を設けても…という理由は確実にあったでしょう。

兄より先に結婚したことが、批判の対象になったりしたが、当時、兄のほうは、まったく先が見えなかったわけです。従ってそのことについては、なんの問題も、宮内庁から困るという話もなかった。家族の中でももちろん問題にはならなかった> P83

これも「全く問題にならなかった」と言い訳するには随分無理があるとしか思えませんね。それではなぜ、お兄様よりも先に結婚したことが当時あれだけ「長幼の序を乱す」と批判されたのか?批判していたのはマスコミや国民だけであり、宮内庁やご一家など「身内」の中では長幼の序を軽んじてもOKという風潮になっていたとでも言いたいのでしょうか。
確かに、今の両陛下は東宮ご一家と秋篠宮家を同列のように扱ったりして、皇室内での序列というものを軽視しているように見えてしまいます。その一方で眞子様を「初孫・孫の中で一番年長者」という理由で可愛がっているようですから、一貫性がないと言われても仕方ない面もあります。
ご自分たちの都合に合わせて序列を軽んじたり重んじたりするご両親(両陛下)を見ていたので、秋篠宮様ご自身の序列への感覚もおかしなものになってしまったのかもしれません。

それにしても「兄貴に相手が見つからないのが悪いんだろ」とでも言いたげな秋篠宮様には腹立たしいですね。皇太子殿下の結婚は皇室の未来にも関わることですから、弟のように軽はずみでできるわけがないのです。皇太子殿下のお立場とお考えを知っていたら「兄貴に相手が見つからないんだからしょうがないじゃん」みたいな発想にはならないはずなんですが。

ここ一、二年、川嶋家の方に問い合わせなどが多くなり、早い時期に公にしたいと判断しました。宮内庁も異議なく、また両陛下からも反対はございませんでした> P84

これは以前に当ブログでもご紹介したように、秋篠宮ご夫妻の当時の婚約会見の宮様の発言の一部です。何度も言いますが「川嶋家への問い合わせが多くなった」理由は、川嶋家が自らマスコミとつながって交際情報をリークしていたからです(朝日新聞がその辺りを詳細に暴露していますから)。「宮内庁や両陛下からも異議はなかった」と言いますが、意義を出せない状況になっていたというのが真相ではないかと思ってしまうのです。

<私は、見ていて口を出すことはありますけれども、自分では料理はしません。やってみたいという気持ちはあり、日曜大工などにも興味はあるのですが…。掃除はやりますけれども。
(『庭いじりとか、それこそ、器用でいらっしゃるから、ご自分で作られて家族の方に食べていただくこともあると思っていましたが』)いや、しません。妹はもちろん料理を作りますが、兄もしないと思います> P87~88


またここでも皇太子殿下を巻き込んで「兄貴もしないしいいじゃん」みたいな感じになっています。
しかし秋篠宮様って「器用」というイメージありますか?正直な所、私はそのイメージはないのですが。

<出るのはまったく問題はないのですが、自分が出無精なもので、外へ行くのが億劫です。ですから、たいていは家にいます。ただ、子供たちを動物園などに連れて行った方がいいので、そういう時は、ウイークデーに、人が少ない時に出掛けます。動物園に行くというのは、私は、ある意味では仕事みたいなものですから(殿下は、日本動物園水族館協会の総裁を務めている)、訪ねる理由もいくらでもつきます> P90

「動物園に行くことが私の仕事」、この部分で笑ってしまいました。「仕事」「公務」を理由にすれば、何でも通ってしまうのですね(笑)。眞子様や佳子様をダシにしていますが、本当はご自分が動物園に行きたいだけなんでしょう。
それに「ウィークデーに動物園に行く」と言っていますが、お子様たちの学校はどうするんでしょう?放課後に行くとか?
なお、上記肉声の補足で「秋篠宮様は日本動物園水族館協会の総裁を務めている」と書かれていますが、秋篠宮様が実は総裁の仕事をまったくしていなかったことがバレてしまった事件がありました。この件も、後ほど秋篠宮様の公務を検証する際に触れたいと思います。

<人によっていろいろと考え方の違いもありますけれど、ある年齢の時に外国に連れて行くのはその子の成長にとってはプラスになるのではないかと思う。国によってさまざまな文化があるし、そういうのは自分で体験するのと本で読むのとでは全然、違うと思う> P93

秋篠宮様は眞子様や佳子様を私的旅行で海外に連れていったことが何度かあります。秋篠宮様が上記のようなお考えを持っているなら、敬宮愛子様が東宮ご夫妻とオランダに行かれたことにも、当然賛成していたはずですね。東宮ご一家がオランダ王室から招待を受けた上でオランダに静養に行かれたことは、当時心ない人々から批判を受けましたが(天皇陛下も苦言を呈するようなことを発言なさっていて悲しくなりました)、秋篠宮様がここで「いや、海外に行くことは子供の成長には良いことです。うちの子たちも海外に連れていったことがありますから」と一言東宮ご一家をかばうような発言をなさっていれば、宮様の株は上がったかもしれませんし東宮ご一家も救われたのではないでしょうか。
しかし、秋篠宮様から東宮ご一家をかばうような発言はありませんでした。


(第三章終わり)

『秋篠宮さま』の中身~秋篠宮様の肉声編 2

今回は江森氏著『秋篠宮さま』の第二章より、宮様の肉声を拾い上げていきたいと思います。

第二章 家族の思い出

<三歳くらいの時、両親が公務で出掛け、寂しくて泣いた思い出があります。
両親が留守の時は、侍従とかが世話をしてくれましたが、やはり肉親とはいろいろな点で違いました。学校の父兄参観日には母が都合がよくて来られる時は、必ず参観に来てくれました。都合が悪い場合は、侍従なり内舎人(うどねり:天皇家の男子皇族の世話をする男性職員)が学校に来ましたが、やはり母が来てくれたらと思いました。でも、しようがないとあきらめていました> P39

授業参観は「親に来てほしい」派の子供と「親に来てもらわなくてもよい」派の子供がいると思いますが、秋篠宮様は前者のタイプの子だったのですね。皇太子殿下はこういう時も「寂しい」とはおっしゃらなかったんだろうなと想像します。「親に来てほしかった」という甘えたことが言えるのも、帝王教育を受けなかった次男坊の“特権”であったかもしれません。

(博士号をとったときにこの話を公表しなかった件で)<これはまったく私的なことだから、分かったら分かった時でよい> P45

秋篠宮様がニワトリの研究で博士号を取得したことは当ブログでもご紹介しておりますが、皇族の立場を利用してその世界の第一人者たちを呼び、彼らの多大なる協力を得て論文を書いた(ことにした)ことを、単に大っぴらにできなかっただけの話では?と思ってしまいます。

<小学校高学年ぐらいになった時に、中学だったかもしれないが、数学で分からない問題を、父が一緒に解いてくれたこともあった。私はある時期、数学は全然できなかったから、そうすると父がやって来て、『この問題を解きなさい』と。『じゃあ、これは』と、随分、熱心に教えてくれた。兄や妹はそういうことはなかったのではないか。私がいちばん、デキが悪かったからでしょう。また、母も算数などを私に教える時に必ず図を書きながら説明してくれたことが今も印象に残っている。また、母とはよく音読も一緒にした。短い詩や和歌、平家物語などもずいぶん読んだ。意味とか解釈とかはほとんどせず、ただ読むだけなのでとても楽しかった> P51

「自分はデキが悪かった」ということを自覚していただけマシだったとも言えます。が、そのような「算数・数学苦手」な人が、自然科学分野で博士号を取得できてしまうものなんですね(笑)。不思議ですね。

<学生時代に両親から『勉強しなさい』とよくいわれましたけれど…(笑う)。勉強が大嫌いでしたから。結局、上から押し付けられて何かやることが、例えば、先生から宿題をやってきなさいとか、試験をするからしっかりと勉強をしなさいとか言われることがいやだったのでしょう。もっとも中国語で『勉強』と書けば無理強いするという意味ですから、勉強が嫌いというのは当然ともいえますね> P54

「他人から何か言われることが嫌い」「上から押し付けられるのが嫌い」という秋篠宮様の態度は、勉強に限らずあらゆる場面で出てくるのだろうと想像できます。だから皇太子になる教育も受けられなかったし、今でも誰かの言うことを素直に聞くことができない方なのでしょう。こんな方が、自分より身分の低い下々の民間人の言うことに耳を傾けるはずがありません。

<いちばん成績が悪かったのは中学生くらいだった> P56

<まあー、要領がよかったんでしょうね(笑う)。私は、試験の前でもほとんど勉強しないですから> P56

江森氏によると、秋篠宮様は普段は大体成績は下の方だったが、進学するときなど大切な時だけ成績が良くなる特徴があったとのことです。学習院高等科から学習院大学に内部推薦で進む際も、推薦試験の時だけ急に成績がよくなったとか…。江森氏は「秋篠宮様は集中的に勉強する生徒だった」と評価していますが、宮様ご自身が「試験の前でも勉強しなかった」と言っているのです。節目節目の時だけ成績が良くなるって何か怪しくありませんか?「秋篠宮様は学生時代の成績が最下位に近かったので、秋篠宮様と同学年の生徒からは一人も落第者を出せなかった」という逸話も聞いたことがありますが、真相やいかに…

<高校生のころ、翌日の英語の試験の前にこういうことがありました。日本文を英文に直す和文英訳というのがありますね。私は字があまりうまくないものですから、和文があって英文をその下に書くと読めなくなります。そこでタイプを覚えようと思い立ちました。これがグッドアイデアだと。そうしたら、タイプの方に凝ってしまった。一時間もガチャガチャとたたくとキーを覚えてしまった。そうなると楽しくなってしまって試験勉強は二の次になってしまいました> P57

はい、ここでも秋篠宮様は「試験勉強は二の次になった」と述べています。タイプに限らず、この方は一つのことに熱中しやすいが、同時に冷めやすい一面もありそうだなという印象です。

<私の両親は、孫たちに会うことを本当に楽しみにしており、また子供たちも、私の両親に会うことをとても楽しみにしています。ですから、もっと両親と私の子供たちが会う機会を多くしたいと思います。九七年も私たちがネパール、ブータンを外遊した際に、二回くらい、子供たちが御所に行って遊びました。御所に行くことをとても楽しみにしていて、玄関を入ると、いつも二人で駆け出して行きます。そして母や妹と、時がたつのを忘れるかのように遊んでいます> P59

眞子様や佳子様は、幼い頃両陛下(とサーヤ)のいる御所によく遊びに行かれていたようですね。97年頃というと、雅子様がお世継ぎご懐妊のことでかなり苦悩されていた時期だったはずです。そのような時に、兄を差し置いて先に結婚してしまった次男夫婦の間に生まれた子供たちが頻繁に祖父母のいる御所に遊びに行く様子を見て、雅子様はどのようなお気持ちになられたでしょうか。懐妊・出産のプレッシャーは、次男夫婦と東宮ご夫妻では重みが違うのです。

<両親に感謝することは、私の好きなことをずっとやらせてくれたということです。子供が何かをやりたいと言っても、それを否定する親もいると思う。
両親はそういうことはなく、とにかく、私の好きな分野をずっと歩かせてくれた。そのことに大変、感謝している> P60


このように秋篠宮様は、幼い頃から「好きなことを十分にやらせてもらえた」環境にいたのです。だから我慢とか忍耐とかそういうものとは縁がない方なのだと思います。50年以上、自由に好きなことをやれてきた方が、次代で簡単に皇嗣扱いになるなんて国民を随分馬鹿にした話ではありませんか。
秋篠宮様が好きなことをずっとやれてきた環境にいる間、皇太子殿下は己を律して生きてこられたのです。


<『ヒオウギアヤメ』という家内の印をなんで印としたのかというと、昭和天皇が、どういう関係にあるのか、『ナスヒオウギアヤメ』の由来や起源を知りたいという話を、家族で会食している時に食卓でされました。
昭和天皇が、なにかよい方法はないかと、私に聞かれた。それでは、私が進化生物学研究所の近藤典生理事長(故人)に相談してみましょうということで、そのプロジェクトが始まりました。
中間報告が進化研からくると、そのたびに私が昭和天皇に報告していました。私がイギリスに行っている間は、私の父がかわりに報告していたと思います。八七年の終わりか八八年の初めから、昭和天皇の具合が悪化するまでずっと続けられました。でも、最終結論は出てなかったと思います。
私もその『ヒオウギアヤメ』のことをよく知らなかったのですけれど、そういうことで昭和天皇が最後に興味を持たれたことの手伝いをした。それでやっぱり自分にとって大変な記念でしたから、家内の印が『ヒオウギアヤメ』になったのです。これは、私が両親と話をしたことによるものです(印は天皇陛下が決めて、お与えになる)> P61~62


紀子妃のお印を決めるにあたり昭和帝と秋篠宮様のエピソードが絡んでいたと知り、秋篠宮ご夫妻のあまりの厚顔無恥さに驚愕しました。秋篠宮ご夫妻が昭和帝の喪中に婚約会見を行い、喪中にも関わらずニタニタと下品な笑みを浮かべていたことを少なくない国民がはっきりと覚えています。昭和帝を一番愚弄していたのは秋篠宮ご夫妻だと思うのに、よく「自分にとって大変な記念でしたから、家内の印が『ヒオウギアヤメ』になった」なんてことが言えるものだと憤慨しています。私の中では、この肉声は『秋篠宮さま』の中ではワーストを争うほど不愉快な内容のものだと感じております。

<昭和天皇からの影響は、生物のことに関してはまったくないと思う。皇族のあり方とか、皇室の伝統とかの話も、あまりしたことがない。大分、前のことなのでよく覚えていないが、私たちが学校の話をしたりとか、普段の生活の話をしたりということが多かったように思う。どちらかというと昭和天皇は聞き役だった。
ご自分の学校時代の話をされることも、たまにはあったように記憶している。それと、印象に残っていることとして、吹上御所から、帰る前に、昭和天皇が、『ヒガンバナがきれに咲いているから、それを見に行こうか』というので、昭和天皇もこちらの帰る道筋の途中まで行かれて、一緒にヒガンバナを見たこと、そして吹上御所の庭を散歩中に、シメジが生えているからというので案内して下さったことがあった。
昭和天皇は、私たちにはとてもやさしかった。兄妹の中で、だれがいちばんかわいがられたというのは、わからないが、私は怒られたということは一度もなかった> P63~64


昭和帝が全てのお孫様に対してお優しい方だったということは事実だと思います。秋篠宮シンパは「昭和帝に一番可愛がられていたのは秋篠宮様だ!」と主張しているようですが、当の秋篠宮様ご自身が「誰が一番かわいがられたというのはわからない」と言っているようなのですが…

<いちばん印象に残っているのは、ピーッと鳴った時でした(心臓が停止された時)。最後にお話をしたのは、八八年の十一月でしょうか。十二月の時にはもう話ができなかったですから。あいさつをして『いかがですか』みたいなことをたずねました。日によってはご容体に違いがあったような記憶もあるのです。
結局、私にとっては祖父に当たるわけですよね。ただ、私は昭和天皇というのが、別の世界にいる人のようなとらえ方をしておりました。自分でそうしていたのかもしれないですけれども同じ家族という感じでは、接してなかったです。これは皇居という掘に囲まれた地理的要因が大きかったかもしれない> P64~65

「これは皇居という掘に囲まれた地理的要因が大きかったかもしれない」?え、そういうことではないような気がするのですが…

(戦前・戦中・戦後を経験された昭和帝のご苦労等について聞かれて)<とにかく私なんか、幸せな時代に育っていますから、随分、違うと思います。
ご苦労話を、昭和天皇から直接、聞くという機会はなかったです。そういう話をあえて昭和天皇はされなかったのかもしれません。こちらから聞けばなにかあったかもしれないですが、むしろ、私は父からそういう話を聞いたことがありました> P66

昭和帝は、戦争中の日本の国家元首・統帥として、真の意味で苦しい時代を生き抜かれた方だと思います。だからこそ、戦争に関しては逆に口が重くなったという事情が考えられると思います。それだけ重い事柄を背負われてきた方なので、孫にも容易にお話することができなかったのではないでしょうか。
一方で今上陛下は、まるで「自分の父(昭和帝)がやってきたこと、本当に申し訳ありません、息子の私が代わって皆さんに頭を下げます、平和こそ第一です」のような態度で「祈り・巡礼」を強調してきています。が、今上陛下はお立場上、戦争中でもかなり恵まれた生活を送られていたというお話も聞きますけど。

<どういう皇族を目指すかというのは、記者会見の時も、よく出てくる質問だと思いますが、皇族の一番上は、天皇です。皇族には天皇をサポートするという役目が不可欠で、それがかなり大きい位置を占めてくると思います。それプラス、いろいろな依頼事とかがあり、それらの仕事をする。皇族の立場としていえば、今はそういうことだという気がします。
もう32(歳)なのですけれど、例えば、これから十年ぐらいたってくると、また違う視野が出てくるのではないかと思います。自分の役目として、あるサブジェクト(題目)みたいなものが出てくるかもしれない。それはそれでまたいいのではないかと思います。自分なりの特色というものを出せたらいいな、と思います。
ただ、もうすこし時間がたってからの方がいいでしょう。今はまだ時期が早すぎますよ。あと十年、もう少しでしょうか。それと、いろいろな機会を通じて自分の意見なり、考えを率直に述べていこうかと思っています。これは大事なことではないでしょうか> P67~68


皆様、秋篠宮様の上記の肉声をよーーーーーーーく覚えておいた方がいいと思います。宮様ご自身が「天皇をサポートする」とおっしゃっているのです。果たして、このお言葉を次代でもきちんと心に留めたお振る舞いをなさるのか、お兄様が次期天皇陛下になられた時も臣下として新天皇をサポートしていく気概があるのか、国民としてよく見ておきましょう!
そして秋篠宮様は、皇族として言いたいことを率直に述べていくつもりであるともおっしゃっています。宮様は、今では何を言っても誰からも咎められることのない存在になってしまいましたが、けっこうとんでもないことを繰り返し述べています。宮様のご発言のこともいつか当ブログで検証したいと考えています。

現に日本に皇室というものが存在しているということは、やはり日本国民の支持があるからこそ続いているのだと思われます。そのようなことから考えますと日本国国民が皇室に対してどのようなことを考えているか、また、どのような皇室というものを期待しているのか、ということをやはり常に念頭に置いて、そして私たちの役割、仕事、務め、いろいろな言い方があるでしょうが、それを果たしていく必要があるのではないかと思います。やはり時代というのは少しずつでも変わっていっているわけですね。その中における皇室はその時代に即した姿というものが必要なのではないかと思っています> P69

はい、上記肉声もよーーーーーく覚えておきましょう。次代の新天皇陛下の、時代に即した新しいなさり方を秋篠宮様が臣下としてきちんとサポートするのか否か、よく見ておいた方がいいでしょう。
それにしても秋篠宮様の口から「皇室は国民の支持があるからこそ続いている」という発言が出ていたとは驚きました。果たして宮様は、平成皇室のやり方が日本国民の支持を得ていると本気で思っているのでしょうか?

<宮中祭祀を大切にしていきたいと思っている。拝礼の時も心の持ち方が大事であると考える。私はいつもご先祖に話し掛けるつもりでお辞儀をしている> P71

秋篠宮様が祭祀を大切にしているなどということは初めて聞きました。ちなみに秋篠宮様はただの一宮家当主にすぎないため、内廷皇族(天皇皇后+東宮家)のような厳格な祭祀は行いません。次代でも内廷皇族とはならないようなので、継承権1位をキープし莫大な予算を組んでもらいながら、厳格な祭祀は行わなくてよいし、祭祀にかかる経費も負担しなくてよいという歪みが生じるおそれがあります。

<どこへ行くにも、下見をしたりとか必ず何人かついてきたりとか、それはやはり窮屈に思ったこともあります。そういう生活を、あなたやってごらんなさいと言われたら、十人中十人が窮屈だと思うでしょう。私も同じ人間ですから、そういうふうに思ったこともあります。
ただ、今はそんなには感じなくなりました。というのは、私自身が出無精で、外に行くタイプではないので、その問題はかなり解消されます。
今度、生まれてくるとしたらなにに生まれたいか、ですか?生まれてくるとしたら、動物がいいな。人間でなくて…例えば?ヒツジがいいかもしれない。ヒツジになってひねもすのんびりと草をはんで。ヒツジに生まれてきたら、なんとなく楽しいのではないかという気がいたします。自分を動物に例えてみたら、なりたいのはヒツジですが。やっぱり巳年ですから、毒ヘビあたりかもしれないですね> P72~73

この箇所は、当ブログでもご紹介した週刊現代1998年7月18日号の冒頭にも引用されていました。とにかく「窮屈が嫌、不自由が嫌、もっと自由気ままにのんびりさせてくれ」という秋篠宮様の我儘がよく分かる肉声だと感じます。

(第二章終わり)

『秋篠宮さま』の中身~秋篠宮様の肉声編 1

前回お知らせした通り、しばらくは「秋篠宮家のパワハラ・ブラック問題」と、江森敬治氏の『秋篠宮さま』の中身の検証(?)をなるべく交互に行っていきたいと考えております。
まず『秋篠宮さま』の第一章目から順に、宮様の肉声を拾っていきたいと思います。

第一章 生い立ち

●<週刊誌などで私は自由奔放だとか書かれていますけれども、小さいころから兄妹の中ではむしろ静かなほうでした。たとえば私の兄は、学校から帰ってくると、すぐ野球をやったりとか、妹はだれか空いている職員をつかまえてきてドッジボールをやるなど、かなり活動的でした。私は学校から帰ってきても部屋の中にいて、無理やり引っ張り出されないと、外でなにかをするということはなかった。
外で遊ぶときは、大体、ひとり、もしくは妹と一緒に虫を捕ったりヘビを捕まえたりして楽しんでいることが多かったです。
『自由奔放』に見えるのでしょうけれども、そのようなことは、週刊誌あたりが作り上げてきたイメージじゃないかと思います。長男は物静かで、落ち着いている。それに比べて次男は自由で活動的だというイメージは根強いと思います。私は、すごい出不精ですし、シャイなのだと思います> P13


うーん…秋篠宮様はご自身をこう評していますが、テーブルの下にもぐって床に転がったり、目を見開いたりして「道化」っぽい行動が多かった宮様の幼い頃の写真を見ると、シャイとか物静かというイメージはやはり湧きにくいですね(笑)。しかし、出無精・インドア派というのは実はそうかもしれないという感じが何となくわかります。が、生き物が絡むと途端にアクティブになるということでしょうか。

幼い頃の皇太子殿下(左)と秋篠宮様(右)
秋篠宮様の幼いころ(右)。皇太子殿下の凛々しさと比べると…

お行儀の悪い秋篠宮様
テーブルの下にもぐって床に転がるお行儀の悪い秋篠宮様

ベロ出しアキシノ
まあ、幼い頃はこれはこれでかわいい(?)一面かもしれませんが…


●<パティ・ページや江利チエミの音楽をよく聴き、周囲から『おじん臭い』と言われます> P14

●<自分の性格ですか?自分で説明するのは難しいです。両親には、もう少し社交的になったほうがいいと言われます。私が、いちばん、得意でないのが社交でしょう。いわゆるバンケットやパーティみたいなものです。初対面の方といきなりパッと会話が始まるほうではないですから、先方からしゃべってくれるほうが有り難いです> P17~18

秋篠宮様は実は社交が苦手、ということは、宮様の様子を見ていると何となく伝わってきます。しかし、今後は「皇嗣」扱いとなる予定であり、皇太子殿下と同等の社交の機会を持つつもりであれば、いつまでも「社交が苦手・向こうから声をかけてくれないと困る」で押し通すのは、やはりおかしいのではないでしょうか。今までは「ただの宮家当主」としてそこまで積極的にならなくても甘く見てもらえたかもしれませんが、「継承権1位」や「皇嗣扱い」という立場を譲らない気であれば、ご自分の苦手なことにも積極的になってもらわないと国内外要人とのコミュニケーションが成立しません。この辺りの姿勢で、秋篠宮様が真に「皇嗣」としてふさわしいかどうか見えてくるかもしれませんが、厳しいようですが人間の性質はそう簡単に変わるものではありません。

●<本当に高いところがダメなのです。兄や妹は、平気です。特に兄は高いところが好きで、江森さんが、お分かりになるかどうか、いまの東宮御所の前の駐車場(その前は天皇陛下のご一家が暮らしていたが、宮内記者が御所を訪ねる時は、必ずここに車を止めた)、ちょうどその真正面ぐらいに煙突があるのをお分かりになりますか?あれの上まで登りました。確か、兄が小学校のころだったと思いますけれど…。そういうのが好きですね、兄は。山にも登りますでしょう> P18

秋篠宮様の運動神経についてですが、イメージほど「良い」というわけではなさそうですね。その点、皇太子殿下は優しく穏やかなお人柄をお持ちでありながら、実は運動神経は良いですし、体を動かすこともお好きですね。

●<本当に、イギリスにいた時は、窮屈な感じがしましたね> P20

●(警察官に)<別のテーブルで食べてください> P20

江森氏によると、秋篠宮様がイギリス留学の最中、常に一人の警官が宮様のそばにピタッと張り付いていたとのこと。食事の時も同じテーブルに警官が座ったため、別の席に移動するようにお願いしたのだとか。「人にいつも見られることをあまり好まない」と秋篠宮様はお考えだそうで…。
皇太子殿下もイギリス留学されていましたが、警備に対してご不満を述べたことなど一度もなかったと思います。「真の意味の皇嗣として育てられた本物のクラウンプリンスはやはりお覚悟が違う」と感じるのです。

●(英国の感想)<食べ物とかも良い印象はうすい。冬場だと、朝から雲がどんよりと垂れこめていて、地面はいつもジトジトしていました。良い印象といえば、私は、博物館に所属していましたので、朝から晩まで仕事ができましたから、その意味では本当に良かったと思います> P20~21

全体的に、イギリス留学にはあまり良い思い出がなかったようですね、秋篠宮様…。

●<妹が小さいころ、兄と二人で、泣かせたことがあります。ちっちゃい子って、本当に泣くとかわいいのですよ。妹を泣かせておいて、ごめん、ごめんというと『よろしいのよ』と妹が答える。一つ覚えみたいなところがあって、それを聞きたいがために兄と一緒に妹にいたずらをしました。ほんとうに悪いお兄さんでした。
なにかをとったこともあったかもしれない。おもちゃかどうか覚えていないけれども。
赤坂御用地の中で、一緒に虫捕りに出かけたりもしました。この前、妹と話したのですが、妹にいわせると、私と一緒に虫捕りに行くのは、恐怖だったといっていました。どうしてかというと、虫を捕り損なうと私にたたかれる(笑う)。それで怖かったみたいです> P21~22

秋篠宮様がずるいというか卑怯だと感じるのは、「妹(サーヤ)を泣かせたりいじめたりしたのは自分だけじゃないぞ、兄貴もやってたんだぞ」と、わざわざ皇太子殿下を巻き添えにしようとするこういう言動です。それに、虫が捕れないとサーヤをたたいて憂さを晴らすって、怖くありませんか?秋篠宮様は生き物関係となると、色々な意味で言動がアグレッシブになることがちょっと不気味というか、少し尋常ではないものを感じてしまうのです。

●<妹は、少なくとも、上の兄二人よりもしっかりしている。両親も妹が結婚したら、困るのではないかと思います。両方の気持ちが両親にはあるのではないでしょうか。手元に置いておきたいという気持ちと、早く結婚させたい気持ちと> P23

また皇太子殿下を巻き添えにしていますね。皇太子殿下は十分しっかりなさってます。

●<父は、夏、海に行った時に、とにかく泳げるようにだけはしておきなさいといっていろいろと教えてくれた。川や海に遊びに行って落ちた時などに、泳げないと生命が危ない。それで浜名湖や自宅のプールで泳ぎの練習をした。かなり徹底していて、それに比べると私は、自分の子供たちにそのようなことをしておらず反省している> P25

この時代の東宮御所は、きちんとプールが使えたんですよね。だから皇太子殿下も秋篠宮様もサーヤも、自宅=東宮御所で泳ぎの練習ができました。しかし、現在は東宮御所のプールは使えない状態のままになっていると聞きました。だから敬宮愛子様は、自宅のプールで泳ぎの練習がしたくてもできず、昭和の皇太子ご一家に比べると随分冷遇されていてお気の毒になります。プール改修に費用がかかるので皇太子ご夫妻が相当遠慮なさっていると思うのです(東宮御所のミニキッチンすら美智子皇后の反対にあってリフォームが許されないとのこと、プールなら尚更でしょう)。しかし、敬宮愛子様はそのような冷遇にもめげずに遠泳などもきちんとこなしてきました。

●(鶴見良行氏の件)<がんの手術をされて、そのあと、一時、回復されていたようですけれども、急に亡くなられたので驚きました。『ナマコの眼』のほかは、私の好きなのは『アジアの歩きかた』。あの方は、自分で歩いて確かめられたことをお書きになりました。それを、さらにすごい量の本、文献、資料を調べられ補われました。そういう姿勢が、私はとても好きでした> P29

●<ある仕事をするという時に、生物学的にだけ、それを調べる人もいれば、それの文化というか、民俗学的なことばかり調べる人もいる。私が思うにそのどちらかひとつというのは少し偏りがあり、両方の接点というものが、今から考えるとなにかを理解する上で非常に大事なのだ、ということを鶴見さんは言いたかったのではないだろうか> P32

●<鶴見良行さんと私が知り合いだと聞いて、びっくりされる人もいると聞きます。ただ、良行さんは、付き合う時にご自身の思想とか自分の皇室に対する考えをひとまず置いて個人としての私と話をしてくださいました。そして私と共通するアジアのことや仕事の進め方などを話されました。皇族と距離を置くということは全然、感じられなかった。それこそ私の周囲の研究者にしても、皆同じような考えだと思います> P34

鶴見氏の考えは分かりませんが(そこまで秋篠宮様を取り巻いていたという印象もないですし)、秋篠宮様のほかの「お取り巻き」たちは、皇族と距離を置くどころか、むしろ積極的に近づいて宮様と親しくなって、おいしい思いをしたいという人たちばかりに見えてしまいます。多紀保彦氏しかり、赤木攻氏しかり、そしてこの本を書いている江森敬治氏しかり。
純粋に秋篠宮様のお人柄に惹かれて親しくしているならいいですが、常に海外行きなどに同行して常に一緒にいる様子を見てしまうと、何かほかに目的があるのでは?と勘繰りたくなるのです。

(第一章終わり)

秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その12~噂の真相によるより詳細な記事③

本日は「噂の真相」 1998年9月号『秋篠宮告白本でわかった皇室と宮内庁“暗闘の構図” 』の最終部分を引用させていただきます。

(記事続き)
今回の単行本の中で秋篠宮はタイ愛人問題を<捏造>と完全否定しているが、実をいうとこれもけっして無根拠な噂ではない。
前出の宮内庁OBがこう話す。
「本の中で、夜は研究仲間とホテルで懇談しているだけでそんな時間はないとあったが、この『研究仲間』というのが問題なんです。秋篠宮殿下はタイに行く際、ナマズ研究の師である多紀保彦・東京水産大学教授、タイ政治の専門家である赤木攻・大阪外大教授、それから今回の本の著者である江森氏ら個人的な取り巻きを必ずといっていいほど連れて行くんだが、朝から晩まで彼らが殿下を囲い込んで、大使館や宮内庁関係者から遠ざけてしまうんです。彼らが協力すれば、ホテルに女性を連れ込むことなど いとも簡単ですよ

しかも、秋篠宮はもうひとり、宮内庁にとって招かれざる人物をタイ旅行に必ず同行させている。
その人物とは、ソムチャイ・コシタポンというタイ人男性。
「コシタポン氏は殿下がはじめてタイを訪れて以来、ずっと現地ガイドとしてすべてのタイ旅行に同行しています。もちろん宮内庁やタイ政府が雇っているわけではなく、むしろ宮内庁は彼の存在に困っているんですが、殿下が勝手に呼んでしまうんです。殿下のプライベートでのスケジュールはすべて彼が仕切っていて、お忍びで色々な所に連れていったり、色々な人間に会わせているらしい。彼はタイの警察にも顔が利く地元ではかなりのヤリ手ですから・・・」(前出・宮内庁OB)
実際、89年の訪問で秋篠宮が一時的に行方不明になるという騒ぎがあったが、これもコシタポンが地元の警察に警備を依頼して、いわゆる「売春窟」に案内していたという事実が判明している。

▼引き払われていた隠しマンション

実は秋篠宮が紀子妃と結婚してから2、3年後、タイの女性が日本にやってきて、隠しマンションで密会しているという噂が流れたことがあった。しかも取材してみると、秋篠宮の姿が頻繁に目撃されているマンションがあったのだ。
この部屋は、渋谷区東1丁目にあるバブル絶頂期に建てられた「P」というマンションの1511号室。部屋の前には「アジア魚類研究会」という小さな表札がかかっていたが、いついっても人気はない。
だが、住民に 聞いてみるとこんな答えが帰ってきた。
「秋篠宮様の姿はたまにお見かけしますよ。それに秋篠宮様が来ると、SPの人が廊下に立っているのですぐわかります」
そしてこの部屋の借り主を調べてみると、なんと秋篠宮の側近であり、パノム博士の恩師でもある多紀教授だったのである。
しかも不可解なことに、本誌がこの事実を96年7月号で報じた少し後、この部屋は跡形もなく引き払われてしまっていた。

(記事終わり)

上記記事では詳細な実名や肩書まで出ていて、秋篠宮様がいつもだいたい同じ「お取り巻き」や「お仲間」を引き連れて好き勝手に行動している様子が改めてよく分かるというものです。例のソムチャイ氏も再登場ですが、この人物は宮内庁などからは良く思われていなかったとも書かれていますね。まあ、彼が一人で勝手に秋篠宮様のスケジュールを管理してしまうので当然ですが。

しかし、秋篠宮様は色々とフリーダムな方なのでそれにつけ入れられ「秋篠宮様は腐っても皇族だし、仲間に入れば色々とおこぼれに預かれそうだ」と民間人に利用されているだけにしか見えませんね。秋篠宮様ご本人は「自分は頼れるアニキ分」を気取っているつもりでも、取り巻き連中はそうは思っていないでしょう。
仮に秋篠宮様が皇族をやめた(皇籍離脱した)場合、ただの一般人となった“文仁さん”にどれくらいのお取り巻き連中が付いてくるでしょうか。

そして驚いたのが「噂の真相1996年号」で取り沙汰されていた「例のマンション」が、あの記事が出た後に引き払われていたこと。そして今回の記事ではそのマンションの名義が「多紀保彦教授」であることが暴露されています(前回の記事では名前は伏せられていた)。
「ここは秋篠宮様が愛人と密会しているマンションではないか?」という疑惑が出た途端に引き払うとは、分かりやすすぎではありませんか。本当に「アジア魚類研究会」のための部屋なら引き払う必要などないはずですし、堂々と「魚類研究」を続ければ良かったではありませんか。
この部屋で秋篠宮様と会っていた女性は、果たして誰だったのでしょうね。
タイの研究員か、それとも例の王女か、それともまだ表に出ていない別の第三者か…

秋篠宮様とタイの関係性ですが、平成28年8月にもテロが無ければタイに私的旅行(目的は明らかにされていません)に行く予定であったことを考えると、秋篠宮様とタイの関係はまだ続いているようです。表向きは「研究」となっていますが、それなら堂々と渡航目的を「研究」と言えばいいはず。なぜ目的を伏せる必要があるのでしょうか。

自分に都合の良いことを語りたい時は饒舌になるくせに、不都合なことには沈黙を決めたりごまかしたり、そこに触れるなといわんばかりの態度になる。秋篠宮ご一家にはそういう印象しかありません。

なお、1996年当時に生じた「秋篠宮様愛人疑惑」を2年後に蒸し返した形になるこの「噂の真相」記事ですが、この記事について宮内庁が抗議したという形跡はないような気がします。
新潮にはあれだけ執拗に謝罪と訂正を求めた宮内庁だったのに。
「川嶋教授の件に触れていなければ別に抗議しないよ」というのが、やはり宮内庁の本音だったということでしょうか?

秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その11~噂の真相によるより詳細な記事②

引き続き、「噂の真相」 1998年9月号の 『秋篠宮告白本でわかった皇室と宮内庁“暗闘の構図” 』を引用させていただきます。

(記事続き)
実をいうと、このタイ愛人報道の情報源は他でもない、宮内庁内部だったのである。前出の宮内庁関係者が語る。
「今だから明かせるんですが、宮内庁の複数の職員が『週刊新潮』に情報を流していたんです。彼らはオクではなくオモテの人物で、宮内庁内部では具体的な名前も判明しています。名前はいえませんが、課長補佐クラスの人物も含まれています。『週刊新潮』に殿下と紀子妃が近所に聞こえるような声で大喧嘩をしていたというクダリがありましたが、あれだって、秋篠宮邸に隣接して宮内庁の職員住宅があるからわかることなんです」

そういえば、一連の報道に対する宮内庁の対応は不可解きわまりないものだった。まず騒動のキッカケとなった宮中晩餐会の件。秋篠宮欠席の理由をマスコミに追及された際、宮内庁は「意思を尊重し、熟慮の上、不本意ながら決めた」と暗に秋篠宮のわがままであることをほのめかす発表をしている。
愛人問題でも同様だ。『週刊新潮』がはじめてタイの愛人の存在を書いたのは96年4月だが、宮内庁はその後、2ヶ月もの間、何の抗議もしていないのだ。
こうして見ると、一連の秋篠宮批判報道に何らかの形で宮内庁の意思が働いていたのは間違いないだろう。そして、秋篠宮はこうした宮内庁の不可解な動きを知って、今回の単行本出版を決意した、そういうことのようだ。実際、秋篠宮は同書の中でもタイ愛人問題に触れ、こう断じている。

<(宮内庁が)報道発表の時に、変な発表をしてしまった。それが問題が大きくなったきっかけだと思われる>
 
前出の宮内庁関係者もこう語る。
「愛人報道の直後、秋篠宮殿下は江森さんら取り巻きの方々に宮内庁に反論したいと相談され、最初、『週刊ポスト』に『匿名の側近が代弁する秋篠宮の肉声反論』という記事を掲載したんです。その流れの中で、単行本も作ろうということになった。最初はもっと早く出す予定が慎重に表現をチェックしたりしているうちに、ここまでずれこんだということのようです」

ある宮内庁OBは苦り切った表情でこういう。
「宮内庁は秋篠宮殿下にはずっと手を焼いてきましたからね。とにかくわがままで、皇族としての自覚がまったくない。宮内庁の困りものなんですよ、殿下は」
たしかに秋篠宮のこれまでの行状は、皇族というイメージからは程遠いものだった。
学生時代はまったく勉強せず、成績はほとんど最下位。若いときから髭をたくわえ、ブランドものを身につけ、外車を乗り回す。一方、皇族の責務といわれる宮中儀式などはおざなりで、ブレスレットをつけて儀式に出席し、顰蹙を買ったこともある。

きわめつきは、紀子妃との結婚をめぐる経緯だろう。兄の皇太子がまだ 結婚していなかったこと、昭和天皇の喪が明けていない事情もあって、周囲から猛反対を受けるのだが、秋篠宮は「結婚を認めてくれないなら、皇族をやめる」とダダをこねて強行してしまったのである。
また「女好き」「プレイボーイ」を物語るエピソードにも事欠かない。
「独身時代、学友に『恋人は7人いる』と豪語した」「テニスサークルを作って、お気にいりの女子学生を次々に入れさせていた」「結婚後も学習院出身の女性と付き合っていた」等々・・・。

 (引用ここまで)

やはり予想通り、宮内庁は宮内庁で秋篠宮様の行状に長年手を焼いており、不満をため込みウンザリした気持ちでいたということが見えてきました。
もちろん、本来は自分らが守るべき皇族について、宮内庁職員がマスコミにあれこれ情報を流すことは正しいこととは思えません。今の時代でも、東宮ご一家が宮内庁からの悪意のリークによって理不尽に苦しめられてきていることを思うと、宮内庁のやり方が良いと言うことはできません。
本来であれば年配のベテランの側近が一言、「宮様、それはやってはなりませんよ」と毅然と注意するのが一番良いのでしょうが、秋篠宮様が素直に言うことを聞かないか、あるいは秋篠宮様とそこまで信頼関係を結んでいる職員が皆無だったのかもしれません。
そして上記記事でも述べられている通り、宮内庁は最初は「秋篠宮様批判記事」を完全にスルーしていたのです。しかし、例の「川嶋辰彦教授が御所に怒鳴り込みに訪れた」という新潮記事が出てようやく宮内庁は重い腰を上げて、新潮社に抗議をしました。宮内庁は秋篠宮様のためには動く気はなかったけれども、なぜか川嶋家のためには動いたのです。
しかし、この「宮内庁は川嶋教授の記事が出て初めて執拗な抗議行動に出た」という理由を、詳細に検討したメディアは見当たりませんでした。

一方、秋篠宮様は秋篠宮様で、江森氏の本の中でさんざん宮内庁に対する不満を述べているにもかかわらず「自分のバッシング記事の時には全然動いてくれなかったくせに、なぜ川嶋教授の記事が出て初めて抗議に出たんだよ」という肝心の部分での不満は一切述べていないようなのです。

この辺りは本当に不自然で謎が多いとしか言いようがないのですが、この頃から秋篠宮様は、川嶋辰彦氏を疎ましく思うよりは自分の味方に付けた方が何かと便宜があるという判断をしたような印象を受けるのです。
川嶋辰彦氏のツテをたどって江森氏に本を書かせたことに始まり、あらゆる場面で川嶋氏とタッグを組んでいこうという考えになっていったように見えてしまうのです。
川嶋氏も川嶋氏で、娘の紀子妃の今後の皇室内での立場を考えると、皇族である娘婿を敵視するよりは自分の都合の良いように“利用”していくことが得策だと考えたのではないでしょうか。

例の「火のない所に煙が立った」会見の後、秋篠宮様はお身内とお誕生日祝いをしたそうですが、そのお祝いの席にちゃっかり川嶋夫妻も参加していたということは以前ご紹介した文春記事に掲載されていました。↓

(1996年12月12日号文春記事より)
>ご会見の様子がテレビや新聞で報じられた11月30日の夜、御所では殿下の誕生日を祝う食事会が開かれた。
「秋篠宮ご夫妻に眞子さま、佳子さまを囲んで、天皇陛下と皇太子殿下のご夫妻、紀宮さま、加えて川嶋教授ご夫妻。記者会見のことなど話題にのぼらず、お子さまの成長ぶりなどに遅くまで話が弾んだようです」(宮内庁関係者)


おそらくこの「火のない所~」会見にも川嶋教授の思惑が絡んでいたのではないでしょうか。
「まあ、愛人疑惑の件はこれでさっぱり忘れて、
今 後 も 一 つ よ ろ し く 頼 み ま す よ 」

という川嶋教授の声が聞こえてきそうな感じがしませんか。そして秋篠宮様も、川嶋氏の持つ色々な「コネクション」を利用していこうという思惑が生まれ、それによって宮内庁も黙らせ、この辺りから秋篠宮家と川嶋家は一蓮托生になったように思うのです。

次回、「噂の真相」の記事の最終部分をご紹介いたします。
以前にご紹介したウワシン記事の「後日談」とも言うべき、興味深い内容が掲載されています。

秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その10~噂の真相によるより詳細な記事①

『秋篠宮さま』という宮様の肉声本について、あの「噂の真相」も記事にしていました。前回ご紹介した週刊現代に比べて長めの内容となっております。この「噂の真相」の記事を何回かに分けてご紹介させていただきたいと思います。

※今回、本当は違う雑誌記事をご紹介する予定でしたが、その雑誌記事の一部が欠けていたため、多少順序を変えて違う雑誌記事をご紹介することになりました。
今回掲載できなかった記事については、完全版を準備でき次第当ブログでご紹介したいと思います。何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。


噂の真相 1998年9月号
『秋篠宮告白本でわかった皇室と宮内庁“暗闘の構図” 』


▼宮内庁も寝耳に水の秋篠宮告白本

雅子妃懐妊の兆しもなければ、紀宮の結婚話も具体化しない。もはや、女性週刊誌に話題を提供する力さえなくしてしまったかに見える最近の皇室。だが、この「殿下」だけは例外のようだ。

2年前、タイ愛人問題で世間を騒がせたばかりの秋篠宮が、今度は単行本出版で話題を集めている。
6月29日、毎日新聞社から出版された『秋篠宮さま』は発売以降、増刷に増刷を重ね、1週間で10万部を突破。週刊誌やテレビもこぞってこの話題を取り上げた。
それも当然だろう。この単行本、表向きは同社の元宮内庁担当記者・江森敬治による秋篠宮論という体裁をとっているが、実際は秋篠宮自身の肉声が満載されている一種の「告白本」というべき内容なのである。

<私は昭和天皇というのが、別の世界にいる人のようなとらえ方をして おりました。自分でそうしていたのかもしれないですけれども同じ家族という感じでは、接してなかったです>

<学生時代に両親から『勉強しなさい』とよくいわれましたけど・・・ (笑う)。勉強が大嫌いでしたから>

<結婚してから何人かの友人に、ビヘービア(行動)が少しよくなった と言われます。 お行儀というか、主にアルコールの話です。家内は、 私の酒とたばこを大変、心配しております>

他にも小さい頃、現天皇に怒られて池に放り込まれた体験、紀宮をいじめていたという話、さらには学生時代、ベ平連のイデオローグだった故・ 鶴見良行教授と親交があったなど、興味深いエピソードが秋篠宮の口から 直接、次々と語られているのだ。そして皇族という自分自身の立場については、こんな感想まで登場するのだ。

<どこへ行くにも、下見をしたりとか必ず何人かついてきたりとか、それはやはり窮屈に思ったこともあります。そういう生活を、あなたやってごらんなさいと言われたら、十人中十人が窮屈だと思うでしょう>

しかし、この単行本がマスコミを仰天させたのはこうした微笑ましいエピソードや心境の吐露ということだけが理由ではなかった。同書の後半、秋篠宮はこんな発言をしていたのである。

<私の小さいころでも、内舎人とか侍従の接し方が、必ずしも適切ではない場合もあった。本人たちは一生懸命にやっていても、他人の子と接するわけで、どこかに感覚のズレみたいなものが出てくる。ことなかれということも、あったと思う>

<私は宮内庁が皇族の希望を制限しているとは思わないが、もっと気配りが必要だ。例えば、会社や学校だと顧客らや学生のニーズというものを考えてどうして売り上げを伸ばすのかなどと考える。宮内庁職員も皇族や国民のニーズにどのように答えていくか、そのあたりをもっと考えてもらいたい>

天皇家の一員がここまで露骨に、身内であるはずの宮内庁に不満をぶつけたというのは前代未聞ではないだろうか。
もちろん、秋篠宮は新聞記者の誘導尋問に乗せられてこんな勇ましい発言をしたわけではない。
版元の毎日新聞関係者が語る。
「著者の江森はたしかに宮内庁を担当していたことがありますが、スクープを狙うようなやり手記者ではないし、今は社会部からもはずされている存在。秋篠宮とは個人的な友人なんです。なんでも夫人が紀子妃の父親である川嶋(辰彦)教授の教え子だった縁で、秋篠宮と家族ぐるみの付き合いをしているらしい。今回の出版ももともとは秋篠宮自身が言い出したことであり、江森は秋篠宮に頼まれて書いたというのが真相です

(記事引用ここまで)

『秋篠宮様』を書いた江森敬治氏ですが、改めて申し上げる通り、紀子妃の実父である川嶋辰彦氏の教え子の夫ということで完全に秋篠宮ご夫妻寄りの人物です。上記記事では「秋篠宮様から出版を言い出した」とまで言及しており、秋篠宮様としては、ご自分の素行の件について雑誌に色々と書かれてしまったことがとにかく悔しかったのでしょう。懇意の人物を使ってご自分擁護のような本を出版させたということがますますハッキリしてきました。

昭和帝を「別の世界の人」とか「同じ家族という感じではなかった」と発言されたこと自体は、それだけ昭和帝が偉大で畏怖すべきご存在だったという解釈もできるように思います。しかし、秋篠宮家支持派が盛んに言っている「秋篠宮様は皇太子殿下より昭和帝に可愛がられていた!」という主張も、説得力がなくなりますね。秋篠宮様が本当に昭和帝から可愛がられていたら、祖父である昭和帝との距離もそこまで離れていると感じたこともなかったはずです。

「勉強が嫌いだった」という発言、週刊現代も取り上げていましたが、この辺は正直でいいのではないでしょうか。ただ、このように「勉強嫌い」と自らおっしゃっていた方が、ご自分をまるで研究者のように見せ、ハリボテ博士号を取得するために色々な手を使ったというのはどういう意図があるのでしょうか。「自分は勉強や学問に向いていないので学位など不要です」という態度の方がよほど好感度が上がったのに、この方はこういうズレた一貫性のない行動をとるのでどうしても不信感が拭えないのです。

「ベ平連のイデオローグだった故・ 鶴見良行教授と親交があった」とありますが、この点について『秋篠宮さま』から少し補足をさせていただきたいと思います。

>『水滸伝』がお好きだった宮さまだが、最近は、鶴見良行さんの本が好きなのだそうだ。『ナマコの眼』の著者の鶴見さんだ。
>鶴見さんについて、若干説明を加えておきたい。鶴見さんはベトナム反戦運動「ベ平連」活動に従事。アジア太平洋資料センターの設立と運営などに尽力した。特に、フィールドに密着してアジア、日本をとらえなおす研究に功績を残した。『ナマコの眼』や『バナナと日本人』などの著作で知られ、一九九四年十二月に死去した。
>宮さまは鶴見さんのアジアの大地を駆け巡る行動力と事実に即し民衆の視点から歴史や社会現象をとらえなおす学問の姿勢に魅了されたらしい。
>鶴見さんとの出会いは、一九八八年。当時、非常勤で学習院大学で中国語を教えていた原島春雄さん(故人)に宮さまが「鶴見さんにお会いしたい」と頼まれたという。原島さんは直接、鶴見さんとは面識がなかったようだが、なんとか連絡をつけてくれた。それで目白の飲み屋で一緒に酒を飲みながらいろいろな話をしたという。
>その時には、学習院女子短大教授(現、学習院女子大学教授)の高橋新太郎さんや東京水産大学教授(現、同大学名誉教授)の多紀保彦さんらも一緒だったという。
同じころ紀子さまも上智大学で鶴見さんの講義を数回、受けられたという。

秋篠宮様がどういう交友関係を持とうと、当時は「陛下の次男坊だし…」ということであまり関心は持たれていなかったかもしれません。秋篠宮様は、アジアなどを自分の足で歩き、自分の目で色々なものに接して確かめていく鶴見氏のライフワークのあり方が羨ましかったのかもしれません。秋篠宮様は皇族の中でもかなり自由気ままに過ごされているように見えますが、それでもまだご自分の置かれた環境に不満で「鶴見氏のようにもっと自由にあちこち動き回れたら…」という憧れがあったのでしょうか。
この方は、やはり皇籍離脱して民間人となった方が向いていたのでは?と思わずにはいられません。
秋篠宮様から何度も「皇族やめてやる」「皇籍離脱したい」という発言があった時、周囲は反対せずに「どうぞどうぞ」と背中を押して上げた方が良かったと改めて思うのです。
しかし、多紀保彦氏はここにも名前が出てきていますね。さすがお取り巻きという感じです。
紀子妃が上智大学で鶴見氏の講義を受けたことがあるという件ですが、まあ他大学の人が聴講生として講義を聞くことは別に構わないと思いますが、こういう情報を目にしてしまうと、鶴見氏のこともどうやら紀子妃の方が先に知っており秋篠宮様に「こんな人がいる」と紹介した?と思いたくなりますね。秋篠宮様は何だかんだいって、紀子妃や川嶋家の影響を色濃く受けていると思わずにはいられません。

しかし、鶴見氏の生き方に憧れたり、窮屈な生活を嫌がったり、秋篠宮様は本当に過剰警備というものがお嫌いな方なのでしょうね。次代「皇嗣」などという扱いになって警備が厚くなることは、秋篠宮様は本音では嫌がっていると想像します(警備を厚くしてもらいたいと思っているのはおそらく紀子妃の方)。

そして週刊現代でも触れた通り、秋篠宮様による宮内庁批判ともとれる件について「噂の真相」も触れています。
次回ページを改めて引用させて頂きたいと思います。

秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その9~ご自分のことは棚に上げて…

秋篠宮様が妻の紀子妃のツテを利用して書かせた本『秋篠宮さま』。その著書についての雑誌記事として、まず週刊現代1998年7月18日号を取り上げさせていただきます。

大反響!秋篠宮が“肉声本”で「宮内庁批判」

<どこへ行くにも、下見をしたりとか必ず何人かついてきたりとか、それはやはり窮屈に思ったこともあります。そういう生活を、あなたやってごらんなさいと言われたら、十人中十人が窮屈だと思うでしょう>
<今度、生まれてくるとしたらなにに生まれたいか、ですか?生まれてくるとしたら、動物がいいな。人間でなくて…例えば?ヒツジがいいかもしれない。ヒツジになってひねもすのんびりと草をはんで>

こんな秋篠宮の肉声が満載された本が、大反響を呼んでいる。6月29日に出版された『秋篠宮さま』(毎日新聞社刊)がそれだ。初版5万部を刷ったがまたたく間に2万部の増刷を決定したというから、ベストセラーになる勢いだ。
皇族のなかでも“異端児”といわれた三笠宮寛仁殿下は別格として、皇族でこれほど自分で思ったままをさらけ出したケースはない。
この注目の本を書いたのは、毎日新聞社の企画事業部副部長・江森敬治氏(42歳)。早稲田大学を卒業して、80年に毎日新聞に入社。京都支局などを経て、91年から3年間、宮内庁取材を担当した。
「江森氏の奥さんは秋篠宮妃・紀子様の父親である学習院大の川嶋辰彦教授の教え子なんですよ。奥さんは川嶋家に頻繁に出入りして、紀子様とも非常に仲がよかった。江森氏も川嶋家とは家族ぐるみのつき合いをするようになった。他の宮内庁記者では単独に秋篠宮にインタビューなどできません。江森氏は、殿下の海外旅行に同行したりして、折に触れて話を聞いています」(ある宮内庁記者)

生々しいエピソードが随所に盛りこまれた秋篠宮の肉声を紹介しよう。たとえば、殿下が小学校低学年の頃の父・天皇との思い出だ。
<冬、私がペットにしていたテンジクネズミを、私が池で泳ぐかと思って泳がしました。そうしたら心臓マヒを起こして死んでしまいました。ちょうどその時に父が、そこを通りかかりました。「何をしているんだ」と。「泳がしたら死んじゃった」と私が言ったのです。そうしたら次の瞬間、私は池の中にほうりこまれていました>
どうも勉強は、好きでなかったと殿下は告白する。
<学生時代に両親から『勉強しなさい』とよくいわれましたけれど…(笑う)。勉強が大嫌いでしたから>
89年1月7日の、昭和天皇の崩御にも触れられている。
<いちばん印象に残っているのは、ピーッと鳴った時でした(心臓が停止された時)。最後にお話をしたのは、八八年の十一月でしょうか。十二月の時にはもう話ができなかったですから>
紀子様との結婚生活についても、<家内は、私の酒とたばこを大変、心配しております。アルコールのほうも、今はそんなに、飲まなくなりました>とか、
<料理はしません。(中略)掃除はやりますけれども>と、あっけらかんと語っているのである。

◆鎌倉長官に対する強い不満が長々と

宮内庁関係者が驚いたのは、この本に出てくる、秋篠宮の宮内庁に対するストレートな批判である。96年4月、秋篠宮のタイでのナマズの調査旅行の日程と、クリントン米大統領の宮中晩餐会のスケジュールが重なった。その結果、秋篠宮は晩餐会を欠席。マスコミに「重要な公務を欠席した」といった論調で報道されたのは、記憶に新しい。
この点について江森氏は、宮内庁がマスコミに対して、調査旅行の意義などを十分に説明しなかったのが問題だったのではないかと指摘。秋篠宮が、二人の知人に語ったという言葉を紹介している。
<宮内庁が発表した内容に『熟慮の末、宮内庁としては不本意ながらうんぬん』というのを出している。しかし、これはおかしい。
私は、事前に宮内庁長官に相談したが、問題なしとの返事だった。私がタイに行くことに対して異論はなかった。その時、長官に、例えば同じようなケースが今後、起こり得るかもしれないが、その場合に外国とか事前に決まっている日程をやめてまでも、どうしても宮中の行事に出なければいけないのかと尋ねたら、『そんな必要はない』と言われた>
この宮内庁長官とは、元警視総監の鎌倉節氏である。96年1月に前任者の藤森昭一氏からバトンタッチして長官に就任したのだが、鎌倉長官になってから皇族の情報が表に出てこなくなり、宮内庁記者たちの評判は芳しくないのだ。
また、秋篠宮は宮内庁の職員への不信感も隠さない。
<私の小さいころでも、内舎人(天皇家の男子皇族の世話をする男性職員)とか侍従の接し方が、必ずしも適切でない場合もあった>
江森氏によれば、宮内庁の職員は何をするにも、「殿下のため」という大義名分をもちだすという。そして、秋篠宮のこんな思い切ったコメントを紹介している。
<私は宮内庁が皇族の希望を制限しているとは思わないが、もっと気配りが必要だ。例えば、会社や学校だと顧客らや学生のニーズを考えてどうして売り上げを伸ばすのかなどと考える。宮内庁職員も皇族や国民のニーズにどのように応えていくか、そのあたりをもっと考えてもらいたい>

◆宮内庁サイドはどう答える

さて、では、これほど明確に批判されている宮内庁は、この本の出版にクレームはつけなかったのだろうか。
江森氏に代わって、毎日新聞社・第一図書編集部の北村肇部長が「まったくクレームも削除もなかった」とこう説明する。
「6月22日に見本刷りを持って行くまでは、宮内庁は本の中身について知らなかったはずです。宮様が宮内庁批判をしていると取られかねない箇所がありますが、それについても、表向きは宮内庁からのクレームはありませんでした」
宮内庁が、時代錯誤ともいえる秘密主義に陥っているという批判は、宮内庁詰めの記者からも噴出している。
「宮内庁サイドは、雅子妃に気を遣い過ぎているという声がある。雅子妃の“ご懐妊はいつか”などという記事が女性誌などで頻繁に取り上げられていましたが、宮内庁は報道に過剰反応している。今年、秋篠宮の長女が学習院の初等科に入学して、両親揃って入学式にお出になった。最近の皇室では唯一おめでたい話なのに、雅子妃に遠慮してか、入学式にまつわるエピソードなどの情報はほとんど出されていない」(前出・宮内庁記者)

では、この本について当の宮内庁はどう考えているのか。以下、宮内庁報道室との一問一答である。
―「事前にゲラのチェックをしたのでは?
宮様から事前に、本についての相談はありませんでした。ゲラのチェックとかいうことはまったくありません」
―本の中に宮内庁批判と取れる箇所があるが、宮内庁はどう受け止めるのか。
「ああ、158~159ページ(前出・タイ旅行へのマスコミへの説明付則に関する部分)ですね。行事の日程は、宮様のご都合もあることなので、なるべく早い時点でご連絡申し上げています」
―宮内庁批判のことを聞いているんです。
「もう一度、聞いてきます」(と言い、10分もたってやっと回答してきた)
「まだ全部を通して読んでいない段階なので、ご指摘の箇所について宮内庁批判なのかそうでないのか、今の段階では何とも答えられません」
こんな調子だから、秋篠宮に批判されるのだ。そのことに、宮内庁は早く気づくべきだろう。

(記事終わり)

秋篠宮様は当時、宮内庁に相当の不満をお持ちでいたようですね。そして、どこへ行くにも職員やSPがついてくる生活が窮屈で、嫌になるとも。そして生まれ変わるなら「一日のんびり草をはむヒツジ」になりたいと。
私は上記記事を読んで「ふざけるな!!」と叫びたい気持ちになりましたよ。

確かに宮内庁にも旧態依然とした点や融通が利かない側面はあるでしょう。お役所仕事しかできない宮内庁に非がないとは言いません。
※上記記事で名前が出ている鎌倉長官(当時)は、「まず子作りを優先させるべき」という方針で、雅子様が海外に行かれることを阻止した(雅子様宛てに来ていた海外からの招待状を取り上げてほかの皇族を海外に行かせた)という事実もある人物であり、到底擁護することはできません。

しかし、宮内庁サイドにも落ち度があるのは事実だとしても、ご自分の自由気ままで好き勝手な振る舞いを棚に上げて一方的に宮内庁に不満をタラタラ述べる秋篠宮様の態度にはムカッときました。
職員やSPが鬱陶しいから急にスケジュールを変更して勝手に振る舞って周囲を慌てさせても許してくれと?
今上陛下の次男坊という立場で、皇太子殿下に比べてはるかにお気楽な立場なのに「ヒツジになってひねもすのんびりしたいな~」ですと?
皇族というある意味特権階級にいて、周囲が「宮様、宮様」と気遣いしてくれる環境なのに、「宮内庁はもっと皇族であるオレに気遣え、オレのニーズに応えろ」だって?
そしてそういう不満をわざわざ本にして出版してもらうために、妻の紀子妃の実家である川嶋家と懇意にしていた人物に白羽の矢を立ててご自分の肉声をタンマリ国民に聞かせようとしたと?

私は思いました。
「秋篠宮様、本当に皇籍離脱して一般人になればよかったのに」と。

皇太子殿下は、職員やSPが始終ついてくる窮屈な生活にも、全く不満をおっしゃったことなどありません。
弟の秋篠宮様よりもずっと自由が少ない、制約の多い生活をなさってきたにもかかわらず、
「私はイギリスでの留学期間に十分に自由を味わいました」と穏やかにおっしゃっていました。
宮内庁の対応に不平不満を漏らしたことなどもちろんありません。
ご自分や雅子様のご実家のツテを頼って、ご自分の肉声を詰めた本を出版させるようなことも当然なさらない。
常にご自分の言動に慎重に気を配られ、周囲に影響を及ぼすようなことは一切避けていらっしゃる。

秋篠宮様は、愛人の噂を流されたことや、タイへ私的に出かけたことを咎められたことに「どうしてオレばっかり」という感じでたいそう不満を抱いていたようですが、要するに日頃の行いが悪すぎて、周囲から信用されていなかった証拠だとしか思えませんね。
我儘でお気楽で自由気ままで奔放で忍耐力がなくてないものねだりで。
宮内庁やSPだって、いくら職務といえどもこんな方を皇族として守り、気遣い、何をされてもじっと我慢しなければならないのですから、相当ストレスがたまっていたことでしょう。彼らは彼らで、秋篠宮様に相当の不満があったと思います。

秋篠宮様が宮内庁に不満を抱いていた一方で、宮内庁もまた秋篠宮様に不満を抱いていたのは確実だと思われます。

本来なら、立場が上である皇族の方が下々の人間に配慮し労いの言葉をかけたりしてもよいところを、秋篠宮様はそういう気が全くなかったということでしょうか。
オレは窮屈だ、オレにもっと気を遣え、オレのニーズを聞け、では、下々の人間は誰も付いて行きたくなくなります。

そして私が上記雑誌記事で更にカチンときたのは、
「宮内庁が雅子様に気を遣いすぎる」
「眞子様の初等科入学があったのに雅子様に遠慮して情報をあまり出せなかった」

と書かれた部分です。

この頃から、秋篠宮ご夫妻は雅子様に対しても不満を抱いていたということでしょうか。
そしてお得意の「私たちは遠慮している!」アピール。

仮にそういう遠慮をしていたとしても、それをアピールせずに黙っていればよいものを。
まあ私自身は、眞子様の初等科入学が話題にならなかったのは、秋篠宮ご一家に対する国民の関心が薄れていたせいにすぎないと思っていますが。
それを雅子様のせいにしようとする思考が本当に許し難いのです。
「宮内庁は皇族のニーズに応えるべき」と言うなら、ご懐妊の期待によるプレッシャーにさらされていた皇太子妃に対する気遣いこそ、第一にしなければいけないはずではないでしょうか?
秋篠宮ご一家など後回しでよろしいですよ。


しかし、秋篠宮様が肉声本を出したことに対し、意外な方が快く思っていなかったというお話も出ていたようです。
次回はその記事をご紹介したいと思います。

秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その8~川嶋家のツテを利用して“称賛本”を執筆してもらった秋篠宮様

1998年6月、毎日新聞社から一冊の本が出版されました。
江森敬治氏が執筆した『秋篠宮さま』という本です。
後でまた改めて取り上げますが、江森氏は川嶋辰彦教授の教え子であった女性の夫という立場の人です。

この本は、以下の目次で構成され、内容は全体的に「秋篠宮様称賛」という形をとっています。

はじめに
第一章 生い立ち
第二章 家族の思い出
第三章 結婚前夜
第四章 研究生活
第五章 外国との交流
第六章 報道不信
第七章 宮内庁への提言
あとがき 秋篠宮さまと私


1996年は「秋篠宮様批判」が吹き荒れていた時期でありましたが、同年の会見を経て秋篠宮様に関する報道は影をひそめたように思えます。1997年以降は雅子様のご活躍やご懐妊の可能性の件などの方が話題になっており、秋篠宮ご夫妻の存在感がかなり薄くなっていた時代でもあったと思います。その前に眞子様・佳子様のご誕生などもありましたが、そこまで国民の関心を引きつけるような大きな話題にはなりませんでした。

この本は当時そこそこ売れたという情報もありますが、当時学生だった私はこの本についてはほとんど記憶がありませんし、この本によって国民からの秋篠宮様への評価がどう変わったのか(あるいは変わらなかったのか)もまったく分かりません。
そもそも、なぜ「火のない所に煙」会見から2年もたってこのような本を出したのか、その意図も色々勘繰ってしまうのです。「ご懐妊の期待報道に悩んでいた皇太子妃をマスコミから守るためにマスコミの矛先を自分たちの方に向けるように仕向けた」という美談があるなら少しは見直すのですが、現在における東宮ご一家と秋篠宮ご一家の関係性を見ると、おそらくそういう殊勝な理由ではないと思いますね。
むしろ逆に世間が雅子様の話題ばかりになったことが面白くないので国民の視線をご自分たちの方に向けさせようとした?という印象です。執筆者にわざわざ川嶋家の関係者を選んでいる辺り後者の意図がうかがえ、そして妻の紀子妃の意向も存分に入っているだろうということもうかがえます。

1998年当時、いくつかの雑誌が『秋篠宮さま』に関する記事を出しているので、次回以降雑誌記事を引用させて頂くとともに、雑誌に取り上げられなかった秋篠宮様の「肉声」で興味深いものがあれば順次取り上げていきたいと思います。
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