礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その9~よくこんな女性が皇室に入れたものですね

これまで数回に分けて紀子妃や川嶋辰彦氏の人となりを色々と振り返ってきましたが、短い文章でありながら紀子妃の本性が分かってしまうなかなかインパクトのあることが書かれた記事を見つけましたので、引用させていただきます。

週刊文春 1993年6月17日号
宮内庁記者が絶対書けない平成皇室「女の闘い」


(前略)
しかし、皇室といえども人間の世界。かつて紀子様と皇后や紀宮様をめぐり、いろいろなことがあったことは事実だ。たとえば、紀子様が皇室入りする前後、皇后が大声で叱ったという“事件”があった。

紀子様がご自分の母親にコーヒーを入れさせようとした時と、コンサートに入場するのに、母親の方が後ろに従う形で歩かれた時のことでした」(学習院大関係者)

皇后が叱った理由は、
「これからの皇室はなるべく普通の家庭のように振舞うことを目指しているのに、母親より娘が偉いかのように行動するのはやめてほしい
という趣旨だったらしく、
「それまでにも小声で何回か注意された」(同)らしい。なにしろ、大恋愛の末、「どうしても、今、結婚したい」と深夜何日間も両親に迫り、「婚約発表」を勝ち取った秋篠宮ご夫妻。
「若さ」故か皇族のメンバーとは、すぐなじんだわけではなかった。

◆手袋の請求書が天皇家に

川嶋家からのお嫁入り道具や衣装は、すべて天皇家が支払うことになっていのですが、ウエディングドレスの手袋の請求書が天皇家にまわってきた時は、皇后もため息をつかれたそうです」(同)
という証言もあるし、お側に置く人間をめぐる、こういうささやきも聞こえてくる。
「皇室に慣れていない女性なので、妹の紀宮様の側に長くいた女性をつけたのですが、うまくいかなかったらしく、紀子様の側をはなれることになったのです。紀宮様にとっては、長期間、親しんでいた女性だっただけにショックだったらしい」(皇室評論家)

周辺によると、御成婚で九人に増えた天皇家の絆にいちばん心を砕いているのは妹の紀宮様だそうで、
「婚約が決まる前、兄浩宮様に友人を紹介していたのも紀宮様ですし、ちょっとした感情のもつれがあると最初に気づくのも紀宮様。私が聞いた話では、天皇家の会合に紀子様がなかなか顔を出されない。どうも秋篠宮様と派手なケンカをされたようなのですが、心配した紀宮様が美智子様にご注進。皇后が仲裁して二人の仲はことなきを得た、ということもあったそうです」(紀宮様のご学友)

最近、周辺が気づかうのも紀子様のこと。
「心なしか紀子様に元気がない。大恋愛の末、結ばれたご夫妻だけに、仲が良すぎて言い合いになることもありますし、雅子様にすべての注目がいくのも複雑な心境になる一因かもしれません」(皇室ジャーナリスト)

(以下略)

この短い記事から、紀子妃の次のようなご性格が分かってしまうのは凄いですね。

●皇族との結婚が決まったことで実母をアゴで使うような感じになったこと。
●結婚を無理やり認めさせるため、秋篠宮(礼宮)様と二人で深夜に現両陛下の元に押しかけたこと。
●嫁入り費用を全て天皇家に支払わせていたくらい川嶋家にお金がなかったこと。
●サーヤについていた職員を辞職に追い込んだこと。
●秋篠宮様と喧嘩したという理由だけで会合をサボろうとしたこと。
●そして雅子様へ注目が行くことが気に入らず不機嫌になること。


本当に、よくこのような身の程知らずの女性が皇室になど入れたものです。
破れ鍋に綴じ蓋と言いますし、秋篠宮様も似たような方であり、ある意味で「お似合い」のご夫婦なんでしょうね。
こんな方たちでも皇族をやっていけること、そして敬わなければならない対象であることにうんざりします。

それにしても…サーヤはこの頃は本当に気立ての良い優しい女性だったのですね。
黒田慶樹さんとの結婚の時の会見で、東宮ご夫妻にだけ感謝の言葉を述べなかったことが心底残念でなりません。

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その8~「紀子妃の右手」写真は何が問題になったのか

秋篠宮ご夫妻の結婚において、一番有名になった写真といえばこれですね。

紀子妃の右手

この写真は、両陛下と秋篠宮ご夫妻の四名で結婚の記念撮影を行う際の合い間に、宮内庁嘱託カメラマンであった中山俊明氏がたまたまシャッターを切ったものということです。中山氏は瞬時にシャッターを切ったためこの写真の前後の秋篠宮ご夫妻の会話等は自分では把握していなかったらしく、紀子妃のこの行為が秋篠宮様の髪を直そうとしたものか、秋篠宮様の額の汗を(手袋で)ぬぐおうとしたものかは判別できなかったようです。

中山氏はこの写真撮影と掲載可否の顛末について『紀子妃の右手―「お髪直し」写真事件』という一冊の書籍にまとめています。今回は、その一部をご紹介しつつ、紀子妃のこの行いについて取り上げたいと思います。

秋篠宮ご夫妻の上記の写真は「ほほえましい・仲睦まじいご夫妻、紀子妃の心遣い」のような感じで新聞等に掲載されました。
ところが、この写真については宮内庁総務課・芦澤係長(当時)から「秋篠宮ご夫妻記念撮影、紀子妃やさしい心遣い」の写真は、記念撮影ではないので取り消してほしい、との強い申し入れがあったのです。

中山氏は皇族ご夫妻の気取らない、微笑ましい一瞬をカメラに収めることができたという気持ちでおり、あの写真は良いものであったという自負があったと思います。「世間の反応も上々だった」とも述べています。当然、宮内庁のこの“お達し”に納得いくはずがないでしょう。

宮内庁が上の写真掲載を中止するよう求めたのは、
「宮内庁が意図した記念写真ではない」
ということであったそうです。

つまり、宮内庁嘱託であったカメラマンが公式に撮影したものではなく、あくまでも公式の記念撮影の“合い間”に勝手に撮影されたものであるので、そういう非公式なものを勝手に掲載されては困るという意味合いがあったのだと。掲載できる写真を宮内庁サイドが一方的に決めつけ、宮内庁の意向に沿わない“非公式”な写真を掲載したらその中止を求めることが当然のようにできるという、宮内庁の権威主義的・官僚主義的な態度は現代において問題が大きいのではないかという疑問を提示しています。

しかしそれだけでなく、中山氏の書籍にはもっと「実質的」な理由があったからではないかという可能性についても触れています。
その「実質的理由」と言える箇所を引用します。

>事件の三日後の七月一日、日本共産党の機関紙「赤旗」はそのコラム「潮流」の中で事件の背景を次のように伝えた。
(中略)
>ジャーナリストの亀井淳さんが「おそらく」と推測します。「親密すぎ、皇族として威厳がない、もっとおそれおおくないといけない」
>結婚した二人が親密なら自然と写真も親密さを写し出すものでしょう。逆だったら、また逆に。ところが宮内庁はリアリズムはいけないという。天皇制自体がそもそもの虚構の演出といってしまえばそれまでですが。
(以下略)
(P142~143)

>宮内庁の「お貸し下げ」意識、事実上の事後検閲を厳しく非難するのは、ジャーナリストの亀井淳さん。
>同氏は、「おそらく、結婚したばかりなのに、親密すぎる、うれしそうにはしゃいで皇族としての威厳がない、もっとおそれおおくないといけない、これじゃ芸能人と同じだというのが、取り消したい宮内庁の本音でしょう。二人の結婚自体、右からは喪中にお兄さんより先に婚約、しかもあまりに普通のお嬢さんとの恋愛とは何事か、という批判がありました。また、アイドル並みにジョギングの写真撮影も断らない紀子さんを、苦々しく思っている連中が宮中にはいますからね」とあきれ返っています。
>同時に同氏は、「マスコミも、宮内庁から取材を拒まれないようにと、身をきゅうきゅうとしすぎ。これが宮内庁を増長させてもいる。この際取材を拒否するくらいの姿勢を見せてほしい」といいます。

(P172~173)

ジョギング
↑紀子妃は、婚約当時このようなジョギング映像を撮られても平然としていましたからね…悠仁様がお生まれになったことでこの当時の映像が蒸し返されてしまったようです(本人は「婚約報道が出たからといって毎日の習慣だったことを取りやめることはない。なるべくいつも通り自然体に」という判断だったようですが)

>週刊誌のなかでもっともすばやい動きを見せたのは「週刊朝日」だった。かんじんの朝日新聞が記事を書かないのに、週刊誌のほうは積極的に取材を展開した。
>その記者は、宮内庁担当の朝日記者から宮内庁内部の情報をかなり集めたうえで、僕に電話をしてきたようだった。
(中略)
>「宮内庁内部で、紀子妃の汗をふいた行為が能動的なものだったか、それとも受動的なものだったのか、という話が出ていることをご存じですか?」
とっさには記者の言葉の意味がよくわからなかった。
>「といいますと?」
>「つまりですね。紀子さんは自分の意思で勝手に秋篠宮の額に手を触れたのか。それとも宮の要請にもとづいて汗をふいたのか、と」
>「そういうことなら、それは秋篠宮が『汗が』と言ったから紀子さんがふいたのですよ。彼は汗かきでしてね。あの時もひたいに汗が光っていました。一緒にいた産経のカメラマンが、『汗が』という声をたしかに聞いたと証言しています。でもそれがどうして問題になるのですか?」
>「もし秋篠宮が『汗をふいてくれ』と紀子さんに頼み、それにこたえるかたちで紀子さんがあのアクションを起こしたのなら問題はない。命令を実行しただけですから。しかし紀子妃が勝手にやったとなるとこれはいささか問題のある…
>「冗談でしょ。なにをばかなことを言ってるんですか。本気で宮内庁はそんなことを考えてるんでしょうかね」
>「まさにばかばかしい話で、私自身あきれているのですが」
>二人の若者が愛し合って結ばれた。写真はそのことをはっきりと表現していた。だがそれだけのことだ。
>伝統と格式と前例を重んじる、現代の常識では計り知れない人びとがまだ皇居の中にはうごめいているようだった。
>天皇家の二男、皇太子に次ぐ皇位継承権第二順位の宮の髪の毛に、いま結婚の儀を終えたばかりの新妻が、直接手を触れた。「汗が」と秋篠宮がつぶやいたとすれば、紀子妃の行為はかろうじて許される。しかし、それが紀子妃の“自由意思”だとしたら、皇居内宮殿・竹の間という場所と、みずからの身分をわきまえぬおそれおおい行為である。―とても信じられない話ではあったが、あの世界ならそういう人びとがもしいたとしてもべつに不思議はない。
>嘱託カメラマンに続いて、今度は「紀子妃の責任」が問われようとしていた。紀子さんはごく自然に夫のひたいに手を伸ばして汗をふいた。カメラマンもごく自然にシャッターを押した。新聞各紙は写真を大きく掲載し、読者の大多数が朝刊を開いてほほ笑んだ。
>いったいなにが悪いというのだ。
>「紀子妃の責任」論がもし事実であったとしても、それは絶対に表には出てこない。ひそやかにささやかれるだけのことだ。しかも行為は「能動的」ではなく「受動的」だったのだから、紀子さんに責任はない。役人がやれることは、嘱託個人の責任追及に全力をあげることだ。
>そうしなければ事態がここまできた以上、今度は宮内庁の責任が問われる。

(P187~189)

私は当時、当該秋篠宮ご夫妻の写真を見てすぐに思ったのは
「ああこの二人、もう結婚前から○○関係を持ってたんだろうな」
ということでした(我ながら嫌な子どもだったと思いますが)。微笑ましいとかそれ以前に、妙なリアル感というか生々しさの方が勝っていたように思えました。
中山氏は自分が撮影した写真ですから「良いものだ」という自負は当然あるでしょうし、あの写真を「仲睦まじくて微笑ましい」と感じた国民も確かにいたとは思います。
しかし私のように、あの写真を見て「ああやはりこの二人…」という感想を抱き、眉をひそめたり苦笑したりした国民もきっと多かったと思うのです。

秋篠宮ご夫妻は結婚前、あまり良い噂が立っていたとは言えませんでした。週刊誌に書かれていたことはまだマシな方で、表に出てこない隠蔽された事実も色々あったという話も耳にしています。ネットがない時代に、口コミだけでもの凄い早さで色々なお話が国民の間に広がっていったようですね。
そういう良からぬ噂が秋篠宮ご夫妻にはあったため、宮内庁がナーバスになって「そういう生々しい連想」につながるようなものを一切消したかったと気を揉んでいたとしても不思議ではありません。
また、紀子妃の「令嬢育ちでない、アパート出身の女子学生」であったという点が問題視されていた経緯もありましたし、もし紀子妃が秋篠宮様の汗を「手袋で」拭ったことが事実であれば「なぜハンカチを使わずに手袋などで汗を拭くのか?」という、紀子妃のズボラな感じが良い印象ではなかったということも“写真隠し”の一因となっていたかもしれません。

中山氏をはじめ宮内庁の対応を批判している人々は「宮内庁も横柄な権威主義・官僚主義から変わっていかないと駄目だ」ということを提言していますが、これは場合によっては「皇室や宮内庁の方が庶民出身の紀子妃に合わせて変革していくこと」を要求しているように思えてしまうのです。
紀子妃が嫁いだ世界は、まさにそういう権威主義的な世界なのです。紀子妃がそういう世界と無縁でそういう事情を知らずに嫁いできたからといって、皇室や宮内庁が紀子妃に合わせなければならない理由などどこにもありません。

逆に皇太子妃となった雅子妃殿下は「皇室に学歴主義を持ちこんだ」と叩かれたこともありますし、ご病気で祭祀ができなくなったのに「祭祀をサボっている、皇室の伝統を守っていない」と理不尽なバッシングを受けたこともありました。しかし雅子様をかばうような意見はマスコミ界隈からはほとんど出てこないように思います。
雅子妃には「皇室や宮内庁のしきたり・伝統に合わせろ」と要求するくせに、紀子妃には「皇室や宮内庁の方が変わっていかないと」と言うのは、フェアではないですね。

「東宮家とただの一宮家の秋篠宮家ではお立場も格も違うから」という言い訳も出てきそうですが、秋篠宮家自身が「うちには皇位継承者が二人もいるのだ」ということを盾に、東宮家と同等かそれ以上の待遇を求め続けてきたのです(そしてその要求が生前退位特例法によってほぼ実現しつつある)。そうであるなら、秋篠宮家も東宮家並みの厳しいお振る舞いをするべきではないでしょうか。

しかし恐ろしいことに、「皇太子ご一家にはやたらと厳しいことを要求する一方で秋篠宮ご一家には甘く秋篠宮家の方に周囲が合わせるべきだ」という風潮は、現代でも継続していますしマスコミもそれに追随しているのです。
中山氏と宮内庁が対立していた昔はまだまともだったかもしれないのです。
「紀子妃の右手」事件など可愛いものだと思えるほど、現代ではマスコミも宮内庁も双方とも癒着して酷い腐敗が進んでいるのです。


※なお、この「紀子妃の右手」写真掲載を取り消させたのは美智子皇后陛下であったという説もあるのですが、そうすると中山氏が批判していた「宮内庁の権威主義・官僚主義的な判断」にはまさに皇族=皇后陛下ご自身が関わっていたということになり、それはそれでまた別の問題が浮上してくるように思われます。ここでは詳細は述べませんが…

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その7~「渦中の女」以前からフォーカスされていた未成年紀子さん

川嶋紀子さんが「渦中の女」として『フォーカス 1989年5月号』で取り上げられたことは当ブログで既に記事にしておりますが、実はその3年前にも、川嶋紀子さんはフォーカスに写真を掲載されていたのです。内容はもちろん、礼宮様関連の記事でした。
今回はその3年前の記事をご紹介したいと思います。

フォーカス 1986年10月24日号

礼宮文仁親王20歳―目白のスナックで“青春の横顔”拝見

東京・目白、学習院大学からほど遠からぬ閑静な住宅街に小ぢんまりとしたスナックがある。中に入ると、テーブルに7~8人のグループがいた。先生と学生らしく、教授の噂話や、あんまり七面倒ではないが法律論議の如きものをサカナに和やかに酒を飲んでいた。中の一人が、「イエスタデイ」など爪弾いている。その横にもの静かな感じの若い女性が座っていた。どこでも見かける若者たちの風景だったが、大いに違っていたのは、ギターを弾いていたのが、ナント礼宮殿下だったこと。実は、殿下はこの店に「たまにお立寄り下さる」(スナックのママ)のだそうだ。同席しているのは、殿下が在席される学習院大学の学生たちと、教師。ごくプライベートな集りである。
話しの合い間に、殿下は周囲の仲間たちをパチパチお撮りになる。殿下のカメラ好きは読者も御存知だろう。この席でもハッセル、リンホフなど高級カメラの名前がポンポン挙がるほど。
「よろしかったら、こちらに来て一緒に飲みませんか」
突然、殿下が隣りのテーブルの客に声をおかけになった。無論、顔見知りでも何でもない。
「初めまして、何かの縁ですから一緒に楽しく飲みましょう」
客はビックリしていたが、「殿下は、酒の席で近くの人と気軽にお話になるのもしばしば」(友人)なのだという。
ところで、気になったのは殿下の隣りの女性。彼女は10時すぎに席を立ったが「そのまま消えてもいいよ」(友人)というキツーイ冗談に送られて、殿下も一緒に店を出て行かれたので…
スワッ!?礼宮妃はこの人でキマリ…とは、とんだ早トチリ。聞けば彼女は以前から殿下と親しい大学の同級生。30分ほどして店に戻った殿下に、「あんまり遅いから戻らないと思った」の声。
「別にそんなのじゃないよ。そこまで送っただけだよ」
殿下はすっかりリラックスの御様子。
あとで、殿下に、「先程の女性は?」とお尋ねすると、「ガールフレンドです」と笑顔で答えが返ってきた。
同席の教師は、「殿下は素直でいい男ですよ」という。「次男坊の気楽さからか、伸び伸びなさっています。この店では、友達と“おい”“お前”で呼び合っています」。
11時30分、お迎えの侍従が登場。殿下は、「ウチで飲もう」とご学友を誘って帰途に。ちなみに、この日の帰宅予定は10時だったのである。この間、店外に待機していたSPは10人ほど。ご苦労様。礼宮殿下の青春に乾杯!

(記事ここまで)

目白スナック
上記フォーカス記事の画像。中央の女性はまさにあの方…

短い記事ですが、礼宮様の次男坊としてのお気楽さがよく分かる内容だと思います。こんな自由気ままな行動に振り回され、ジッと耐えなくてはいけないSPたちに心底同情します。それが彼らの仕事といえばそれまでですが、昔から現在まで、秋篠宮様は毎日ずっとこんな感じなんだろうということが容易に想像できます。ご自分を律して生きてこられた皇太子殿下には望めない日常ですよね。
礼宮様はスナックから「ウチ=東宮御所」に場所を変えて飲もう、と友人を誘っていますが、この当時はまだ現両陛下や現皇太子殿下、黒田清子さん(紀宮様)と同居していたはず。同居のご家族に迷惑にならなかったのでしょうか?こういう点でも礼宮様は自分のことだけ考えて、お気楽に生きてこられたんだなと思うのです。

そして東宮家アンチは皇太子殿下が王族たちと仲良く写真撮影し合っている場面を見て「カメラ小僧」と貶していますが、今も昔もカメラ・写真好きなのは礼宮(秋篠宮)様の方ではないですか。「礼宮様のカメラ好きは読者も御存知だろう」とまで書かれているのでけっこう有名なお話なんですね。秋篠宮ご夫妻は今でも海外公務などでカメラを構えている場面をたくさん抜かれています。

それはそうと、上記フォーカス記事の画像をご覧いただければお分かりかと思いますが、スナックで礼宮様のお隣にいた女性はまさに川嶋紀子さんです。このニターとした笑み、髪型、雰囲気、間違いなく川嶋紀子さんですね。
礼宮様がこの当時20歳だったということは、紀子さんは当然この当時まだ未成年のはず。未成年なのにスナックに遅くまで入り浸り、もしかしたら未成年飲酒まで行っていたかもしれませんね。こういう点からも、紀子さんが「深窓の令嬢」でないことがよく分かります。
まあ、この時はまだ日付が変わる前に席を立って一人で先に帰宅していただけ少しは遠慮があったのでしょうが、徐々に遠慮がなくなり、東宮御所に頻繁に通って侍従が慌てるほど礼宮様と二人きりで…という展開になっていくわけですがね。周囲から「そのまま二人で消えていいよ」「あんまり遅いから戻らないかと思った」と冷やかされるくらいですから、この時から礼宮様と紀子さんにはそういう“意欲”(?)が垣間見えていたのかもしれません。

フォーカスはこの当時はまだ「女性=川嶋紀子さん」ということまでは把握していなかったようですが、冗談のように書いた「礼宮妃はこの人で決まりか?」の一文が現実になってしまったことを重く考えると、本当に笑えないですね。

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その6~百聞は一見にしかず、不謹慎な笑顔会見

礼宮様と川嶋紀子さんが「昭和帝の喪中なのに婚約を決めてしまった」ということを礼宮様ご自身が会見で認めていたことは事実でしたが(当然この会見も喪中なのに行われた)、この会見の最中、礼宮様と紀子さんは不謹慎なことに何度も笑顔を見せています。

百聞は一見にしかず、その当時の会見画像を見ていただければお分かりになるでしょう。

よみうり写真館喪中婚約1
よみうり写真館喪中婚約2

↑「よみうり写真館」より。「昭和天皇の喪中で」という文言もハッキリと書かれています。

喪中婚約会見1
喪中婚約会見2

↑当時のテレビ映像より。

喪中なのに不謹慎笑顔

喪中婚約なのに大笑いの紀子さん。あまりにも不謹慎で昭和帝に対する畏敬の念が全く感じられません。


「ご自分たちの婚約会見なのだから嬉しくて笑顔になるのは仕方ないのでは」という見方をする人たちもいるでしょう。
しかし、それならわざわざ昭和帝の喪中なのに婚約を強行することも、会見を開くこともしなければよかっただけの話です。

私は当時10代前半でしたが、昭和帝のご病状が悪化した頃から崩御されるまでは、日本中が自粛ムードになっていたことはハッキリと覚えています。井上陽水さんの「みなさーんお元気ですかー?」というCMの言葉もカットされ、年末の紅白歌合戦も華美な服装を止める歌手が何人もいましたし、お正月の飾り付けもしないのが当然のような感じになっていました。そういう自粛ムードを重く実感していた当時の日本人からすれば、まさか昭和帝の孫が率先して自らの喜び事を強行させるなどということは、夢にも思わなかったのではないでしょうか。
秋篠宮ご夫妻のイメージがあまり良くないのは、この喪中婚約記者会見があったことが大きいと思うのです。

元総理大臣の海部俊樹氏からも、このような辛辣な言葉が残されています。

>秋篠宮殿下結婚の儀にあたっては、誠に僭越で畏れ多いことながら、悩んだ末に、私なりの考えを藤森昭一長官に伝えた。
>秋篠宮殿下は、紀子様と一刻も早く結ばれることを願っていらした。
>私は真実、国のためを考え、内閣からの助言として、「先帝陛下の喪が明けるまではお待ち願いたい。
日本には、一般の家庭にも公序良俗があります。ましてや、天皇家におかれましては」と、申し上げた。
>秋篠宮殿下結婚の儀は、昭和天皇の喪が明けた1990年6月29日につつがなく執り行われた。

(「政治とカネ―海部俊樹回顧録―」より)


「結婚自体は喪明けだから許される」という問題ではないように思います。

ちなみに紀子さんが会見で着ていたワンピースは黒に見えますが、実際は濃紺だったようです。
「昭和帝の喪中であるので喪服っぽいものを敢えて選んだ」という見方をしている人もいるようですが、何度も言いますが、結局は
「昭和帝の喪中にわざわざ婚約会見などするな!」という怒りに行き着いてしまうのです。

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その5~“渦中の女”と呼ばれても皇室に入りたい!

川嶋紀子さんの存在については、当時複数の雑誌が記事にしています。
その中でこれから引用する「フォーカス 1989年5月5日号」の記事は、紀子さんを「渦中の女」と言い放ちまるでスキャンダルの最中にいる芸能人のような扱いをしています。
フォーカスは元々写真中心の雑誌でしたが、この記事もデカデカと川嶋紀子さんの写真が使われていました。

(引用開始)
フォーカス 渦中の女 1989年5月5日号

礼宮さま「皇籍離脱発言」の陰の「恋人」

金のブレスレットをしたり口髭を生やしたり、常に自由奔放ぶりが話題になって来た礼宮さま(23)。最近は、なんと「皇籍離脱」まで口にされたと伝えられているが、実はその裏で、若々しい恋愛が進行中らしいのである。

お相手は、川嶋紀子さん(22)。学習院大学経済学部教授・川嶋辰彦氏の長女で、今春、学習院大学文学部を卒業。現在は大学院に進み、心理学を専攻しているお嬢さんである。
「礼宮さまの反攻の原因は、兄との待遇の違いといわれるが、それは当然のこととして育ってきたはず。真相は結婚問題です。川嶋さんは父親が教授とはいえ、教職員宿舎住まいであまりに身分が違う。周囲の反対に、“それなら平民になればいいんだろう”とでも仰言ったんでしょう。ロンドンに留学されたのも、彼女から離すためと聞いています」(皇室ジャーナリスト・河原敏明氏)

紀子さんは大学時代、礼宮さまが会長を務めていた自然文化研究会に所属し、毎年3~4回ある研修旅行にも必ず参加。殿下も彼女のことが気に入り、“キコちゃん”と呼んでいた。
2年ほど前から、彼女はよくひとりで東宮御所に遊びに行くようになった。礼宮さまの運転するオレンジ色のワーゲンで御所内をドライブしたりしてデートを重ねていました。礼宮さまの部屋で二人きりで2~3時間すごし、侍従が慌てるということも何度かあった」(皇室担当記者)

昨秋、昭和天皇のお見舞いのために礼宮さまがイギリスから帰国した折も、紀子さんは東宮を訪れたようだ。またこの3月、彼女は大学の卒業式にも出席せずイギリスに渡ったとの報道もある。
一方、ロンドンの礼宮さまも親しい人間に「この夏にも婚約したい」と語ったと伝えられる。直接、紀子さんにお尋ねしてみると、「そのことについてはお答えできません」と微妙な“お答え”。
もっとも、ある皇室関係者は「婚約などありえない」と言下に否定なさる。
「独身の兄を差置いてそんなことはできない。それに今は喪中です」

浩宮妃候補の名前はいろいろと取沙汰されて来たが「決定版」はなかなか出ない。かつて「30歳までは」と仰言られた浩宮さまも、来年2月で30歳である。
「来年1月、喪が明けた直後に皇太子妃を発表すると思う。5月頃に結婚。すると秋の新天皇の即位の大礼、大嘗祭に夫妻で御出席になれる」(河原氏)
もしそうなれば、次には礼宮さまの婚約も現実的な問題となろう。
学習院の恩師のひとりは「周囲に結婚を反対されても礼宮さまはやるでしょう。それが彼なんです」という。

果たして、結婚でも型破りなところを見せて下さるか…。礼宮殿下、青春まっただなかである。


(記事終わり)

この記事の懸念通り、礼宮様は結婚でも「型破り」な行動を実際にとってしまったということになりますね。

上記記事自体は長くはないですが、礼宮様と紀子さんの交際と結婚がなぜ問題視されているのかコンパクトによくまとまっていると思います。
形式的な理由としては、昭和帝の喪中であったということと、兄上である皇太子殿下よりも弟が先に婚約してしまうという「長幼の序」を乱すようなことはいかがなものかという懸念。
実質的な理由としては、川嶋家があまりにも皇族と身分が違い過ぎるという問題と、何より川嶋紀子さんという女性の人となりに眉をひそめる人たちが少なくなかったということ。

いくら交際相手が皇族だからといって、紀子さん一人でノコノコ東宮御所まで押しかけ、侍従が慌てるほど礼宮様と二人だけで過ごしていたという辺りで、このお二人が周囲の目から見ても清らかな交際をしていなかったということが分かってしまうのです。

上記記事で興味深いのは
「昭和帝の喪が明けてすぐに皇太子殿下が婚約を発表し初夏に結婚なされば、秋の新天皇陛下の即位の大礼・大嘗祭に東宮ご夫妻で出席することができる」
という点に触れている箇所です。
しかし実際に上記のことを実行したのは東宮ご夫妻でなく、弟ご夫妻の方であったと。

紀子さんはこのフォーカスの記事を見たか、あるいは最初から「自分も妃として皇族として、新天皇陛下の即位の礼と大嘗祭に絶対に出たい!」と心に決めていたのか、本来は新しく迎える東宮妃に期待されていたはずのことをまんまとご自分がなさってしまったということです。

紀子妃はこの後も「本来なら東宮妃に期待したいこと」を、お呼びでないのに「私がやります!」といった感じでお振る舞いになるパターンが非常に多いと感じてしまいます。
「誰も貴女にそのようなことは頼んでいないし、期待もしていないのに…」と言いたくなる場面で、いつも紀子妃が前へ前へと出てくるように感じられます。

ただの一宮家の妃は絶対に東宮妃の代わりになどなれないし、なってほしいなどと誰も思わないのに。

渦中の女
1989年5月5日号 フォーカス “渦中の女”川嶋紀子さん

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その4~朝日記者に手紙まで書き、その手紙の公開まで許した紀子さん

前回のブログ記事で、川嶋親子と朝日がズブズブの関係だということがバレてしまいましたが、紀子さんは礼宮様との婚約が決まった後も、律儀(?)に朝日記者に現在の心境を綴る手紙を送っていることも判明しています。
以下、その手紙全文を引用いたします。

(引用開始)

朝日新聞 1990年(平成2年)6月29日
紀子さん胸のうちをつづる  取材続けた本誌記者へ
 

二十九日に礼宮さま(二四)との結婚を控えた川嶋紀子さん(二三)から、最近の思いをつづった手紙が、お二人の交際が始まってから四年余り川嶋家を取材してきた朝日新聞の内藤修平記者(現西部本社社会部次長)に寄せられた。

「楽しみ」と「迷い」に揺れた心、礼宮さまへの思い、父親への気遣い。
さまざまな思いをにじませた便りは「さわやかな大空のもとで、礼宮さまと仲良く過ごしていきたい」との決意で結ばれている。

紀子さんの了解を得て、手紙の全文を紹介する。


>婚約が内定致しました頃、澄み渡った空のもとで涼風が吹き始めておりました。あれから九カ月余りが過ぎました。

>時の流れと共に学習院構内では銀杏の葉が次第に色付き、色とりどりの秋桜が揺れ動いておりました。気候が一段と冷え込みます時期には、水仙や葉牡丹の姿が見られ再び暖かな春を迎えますと、並木道は梅や桜の花で覆われました。
>日差しが眩しく輝きはじめました今、研究室近くで咲く梔子の香りが、明るく漂って参ります。
>このような日々、結婚式の修礼を厳粛な雰囲気の中で重ねて参りますにつれ、結婚への思いが心静かに膨らんで参ります。
>同時に、皇族となる自覚とその責務に対する認識に、身のひきしまる思いが致します。

>最近まで私は、大学院に週二、三回通い、修士論文のテーマを徐々に絞って参りました。 今考えられます道は、主として二つあるように存じます。

>ひとつは、卒業論文「認知地図の成立に関する規定要因」を土台に据えて、新たな視点をその上に構築する方法でございます。
>もうひとつは、学部時代からの関心課題「家庭における老人と子供との相互関係」を取りあげる方法でございます。
>「何れの選択に到達するにせよ、研究論文の種が結実するために必要な時間を一とすると、文献渉猟、実験調査にはそのうちの三分の一をあて、残りの三分の二は試行錯誤的な考察に向けるように」 と、私の指導教授はおっしゃいます。

>論文を完成させていく作業は、一方で好奇心、探究心などを満足させてくれる楽しみが ございます。その一方で、迷いや焦燥感にとらわれ、そこでは、忍耐力が求められます。
>論文作成に限らず、ひとつひとつのことを一歩一歩仕上げて参りますには、常にこれと よく似たことが言えるかと存じます。光と影とが重なり合い、まとまりある結果へと導いているのではないでしょうか。

>英国では禮宮様が、オックスフォード大学の博物館内の一室を中心に、日々御研究をお進めになっていらっしゃいました。
>熱中されるあまり、お食事時間を忘れられましたこともしばしば、と伺いました。あまり御無理遊ばされませぬようにと心配でございました。
>先週、英国での御成果を携えられて、お元気に御帰国遊ばされました。

>二年間を懐かしく振り返りながら、文字やパピルスを発明した古代人、そして科学者ベル……英国と日本との距離を縮めました温かな歴史……に感謝する気持ちが、ふとおどり出て参りました。

>父は、その日が近づいて参りますに従い、自分の感情を懸命にコントロールしているようにも見受けられます。
>新しい人生に旅立つ娘を祝福したい気持ちと、少しでも一緒に過ごせる時間を大切にしたいとの思いが交錯しているようでございます。五月の連休に家族揃って出掛けることのできました栂池での山歩きを喜んでおりました。
>母も、弟の舟も、父と共に数日後、新たな生活が始まります。

>天皇陛下、皇后陛下をお助け申し上げ、自らに課せられます公の責任を果たし、家庭ではさわやかな大空のもとで禮宮様と仲良く過ごして参りたいと存じます。

>長い間、いろいろとお世話になりまして、有難う存じました。どうぞお元気でお過ごし遊ばされますように。  
>ごきげんよう。

平成二年六月二十六日   川嶋 紀子


(引用終わり)

はあすごいですね、特定メディアの記者に手紙まで書いて、その公開まで了承するなんて!皇族となろう人が特定メディアと懇意であるということすら重大視されるべき問題なのに、その関係性を自ら「公表してもいいわよ」と言わんばかりの態度でいるとは…本当に川嶋紀子さんの考えていることは理解不能です。
「皇族となる自覚とその責務に対する認識に、身のひきしまる思い」でいるはずの人が、こんなことをしていては駄目ではないでしょうか。
今の時代でもこのような行いは眉をひそめられても仕方ないのでは?と思います。

そして紀子さんが研究テーマにしたいという「家庭における老人と子供との相互関係」…。なるほどもしかして、紀子妃はこのテーマに基づいて両陛下と眞子様・佳子様・悠仁様を上手に近づけさせたということでしょうかね。

それにしても「礼宮様」を「禮宮様」と書いた人、私はほかに知りません。わざわざ旧字体を当てる必要性がどこにあったというのでしょうか。こういう点も気持ち悪いです。

川嶋一家が連休中に出かけたという「栂池」ですが、栂は秋篠宮様のお印でもあります。それを知っててわざわざ栂池を選んだのであればやはりこの一家は強かですね。
ちなみに栂は、昔は罪人を磔にするための植物だったということです。「栂=ツガ」と読みますが「ツガ=トガ=咎=罪」という説もあるようですね。
なぜこのような植物が秋篠宮様のお印に選ばれたのかは分かりませんが。

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その3~川嶋家自らが朝日に交際情報を流していた!

「礼宮様と紀子さんがなぜ昭和帝の喪中にも関わらず急いで婚約発表することになったのか」という問題を検証するにあたっては、まず紀子さん(川嶋家)自身が、礼宮様との交際情報を自らマスコミに流していたという事実を直視する必要があります。
以下、朝日の記者が「川嶋紀子さんと自分たちとのズブズブの関係」を暴露したに等しい記事をご紹介します。


川嶋家を見つめて 内藤修平記者 斎藤智子記者
朝日新聞 1989.09.12

初めて川嶋紀子さんに会ったのは、昭和61年5月の雨の日だった。待ち合わせた東京・目白の学習院大学近くの喫茶店に時間通りに現れた彼女は、横の窓からちらっと中をのぞいてから、入って来た。
>まだ少女の面影の残る、学習院大学の2年生だった。紺のヘアピンを飾っているだけで、化粧はせず、服装も清そだった。ふっくらした顔立ちと、言葉を選びながらのゆっくりした話しぶりが、テレビ画面で見たことのある美智子さま(皇后)の婚約発表時の顔と二重写しになった。そのことを伝えると「ありがとうございます」と紀子さんが答えたように記憶している。
英国のダイアナ妃が来日した直後で、「ああいった方にあこがれますか」と水をむけると、しばらく考えてから「すてきな方だと思います」とうつむいた。いま考えると、あるいは、その時、将来の自分の姿を思い描いていたのかもしれない。

父親の辰彦さんとは、それより前の2月に会っていた。60年暮れ、紀子さんが礼宮さまと三浦海岸でデートをされたという話を聞き、周辺の取材を続けた末のことだった。「私がお話しして予断を与えてはいけないので、本人から直接聞くのが一番いいと思います」。辰彦さんのこの言葉が3カ月後に実った。
>川嶋さん家族との私たちの交際は、こうして始まった。


礼宮さまは学生時代、「兄より先に結婚したい」という強い希望をごく親しい人に漏らしていた。浩宮妃が決定したあとに「さぁ、次は」とマスコミの標的にされたらかなわない、というのも1つの理由だったらしい。だから紀子さんのことも、正式に婚約がととのうまでは、そっとしておいてあげたい、というのが、取材に当たった私たちの考えだった。
ところが、お2人は、学習院大学の演劇サークルの公演を見に豊島公会堂にそろって出かけ、一緒の車で帰る。紀子さんは頻繁に東宮御所に出向き、テニスをしたり、車を運転したり。むしろ2人の仲をオープンにして既成事実をつくろうとしているのではないか、と思えるほどだった。

>それまでは「サークルの先輩と後輩の関係です」と笑いながらはぐらかしてきた紀子さんが、初めて結婚を意識した話をしてくれたのは、昨年の9月だった。昭和天皇のご病状が悪化した1週間ほど前である。
>「自分の努力で克服できるものと、そうでないものがあります。宝くじに当たらないとダメだったり、タイムマシンに乗って過去にさかのぼって改めたりすることの出来ない問題もあります」。そして「立場も違いますし、育った環境も違った2人が一緒に生活していくことは大変なことだと思います」と続けた。心の中で揺れ動きながら結婚を真剣に考えていることが、ひしひしと伝わってきた。
>「結婚されても、これまで通り会っていただけますか」と聞いてみたら、「それは、難しいと思います。ひとり(の記者)にお会いしたら、ほかの方にも同じようにお会いしなければならなくなります」という答えが返ってきた。
>既に2人の間では結婚の約束が出来ていたのではないか。そのとき、こんな確信を持った。
>「ご結婚の時期はいつなのですか」と、追い打ちをかけると、「ハレーすい星がくるころかしら」と笑顔ではぐらかす余裕を取り戻していた。

>2人の「価値観」に紀子さんが初めて触れたのは、今年に入ってからである。
>「社会的肩書とか家柄で人を判断するのではなく、ひとりの人間として見ようとする姿勢がある方です」。そして「私自身、国籍や肩書で人を判断しないように、と育てられてきましたし……。もっとも私の場合は家柄とかがないせいですが」とほほ笑んだ。
>「礼宮さまが英国でデート」と一部の週刊誌が報じた今年4月、インドネシアを旅行中の紀子さんから英文のはがきが届いた。帰国後、電話ではがきの礼を述べると、こう話した。
>「旅先で、東京の報道を知り、心配していると思って。私は英国には行っておりません」

>婚約が内定した後、久しぶりに、お祝いを言うために自宅を訪れた。「おめでとうございます」と言うと
>「ありがとうございます。でも、まだ正式に決まったわけではございませんので」と、晴れやかな笑顔を見せた。
>何がきっかけで親しくなったのか、と聞いたら「本当に、自然な形で」と、はっきりとした答えだった。
>「お付き合いする中で、折に触れ、(礼宮さまの)行動を見、意見を伺うとき、『そうか、こういう考え方もあるのだわ。私はしたことがないけれども、それもいいなぁ、私もしてみようかしら』というようなことが、何回か重なったのです……」


(記事終わり)


「川嶋紀子さんと朝日記者が始めて会ったのは昭和61年5月」とのことですが、驚くべきことに昭和61年2月に先に朝日記者と会っていたのは父親の川嶋辰彦氏であったとのこと。まだ昭和帝がご健在であった頃から、川嶋親子と朝日は関わりを持っていたのです。

普通の親であれば「その件は私どもには分かりませんし何より礼宮様にも娘にも迷惑がかかるので止めてください」という感じで、マスコミの取材から逃げたくなるものだと思います。しかし辰彦氏は自ら「娘の紀子に直接会って話を聞いてみたらどうだ」と、平気でマスコミと娘が近づくことを容認することを言っているのです。父親としてこれはどうなのでしょう。
そして紀子さん自身も、朝日記者と会うことを断るどころかちゃっかり取材を受けてベラベラ喋っているというしたたかさ。
朝日記者からも「二人の仲を敢えてオープンにして既成事実を作ろうとしているように見える」と言われる始末。
小和田雅子さんがマスコミから逃れ、時には毅然とした態度でマスコミに立ち向かったことを考えると、川嶋親子の態度は解せないことだらけです。

もし当時にネットが発達していたら、川嶋一家のこのような「マスコミを使った外堀埋め行為」は大バッシングを受けていたのではないでしょうか。芸能界でもこのような「外堀埋め」「既成事実作り」が横行することがありますが、やはり良い印象は持たれていませんね。
そして紀子さんは今の時代だったら容赦なく「皇族狙いのプロ彼女、しかも親子ぐるみで!」と批判を浴びていたでしょう。
現在ではこういう事実がほとんど語られなくなり「無かったこと」にされつつあるのは、非常に危険なことだと思います。

そして当時はただの民間の女子大生にすぎなかった紀子さんが朝日などという大手マスコミと懇意になれたのも、父親の辰彦氏の「入れ知恵」があったからですね。「辰彦氏の方が娘より先に朝日とコンタクトをとっていた」という事実からもわかります。

そして川嶋家と朝日との関係は、昭和帝のご体調が悪化し、崩御された後もずっと継続していたことが伺えますね。
礼宮様が婚約会見で「川嶋家への問い合わせが多くなり…」と言っていたのも、辰彦氏・紀子さん親子が結託してマスコミにわざと礼宮様との情報を流しマスコミが騒ぐように仕向けたからでしょう。そして礼宮様に責任を感じさせるように仕向けたという見方ができます。芸能人もビックリの既成事実作りですね。

川嶋辰彦氏については今ではほとんどマスコミの報道がありませんが、この人物は相当危険だと思います。

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その2~「喪中婚約」記者会見の全内容

1989年8月26日、礼宮(秋篠宮)様と川嶋紀子さんの「婚約内定」が報道され、同年9月12日、皇室会議でお二人の婚姻が可決・内定され、その後礼宮(秋篠宮)様と川嶋紀子さんの婚約記者会見が行われました。

以下がその婚約記者会見の一問一答です(読売新聞1989年9月13日記事より)。

●礼宮さま・紀子さんの記者会見での一問一答●

礼宮さまと川嶋紀子さんの記者会見は、12日午後3時から25分間、赤坂御所の「桧の間」で行われた。一問一答は次の通り。

−−このたびは、ご婚約決定、おめでとうございます。

礼宮さま「どうも、ありがとうございます」

−−質問に移らせていただきます。お2人は皇室会議で正式にご婚約決定となりましたが、現在のご心境をお聞きしたいと思います。

礼宮さま「皇室会議で承認していただきまして、いま、ホッとしているというか、そういう気持ちです」
紀子さん「私も、礼宮さまと同じく、私どもの結婚に皆さまのお認めをいただき、まことにうれしく存じます」

◆ひかれた点 プロポーズ
−−お互い、どんな点にひかれたのでしょうか。

礼宮さま「以前にもお話ししたことがございましたが、話をしていて楽しい人。また、どことなく愛きょうがあるというか……」
紀子さん「生物、例えば御所内で飼ってらっしゃるナマズやアヒルなどをかわいがっておられるお姿や、熱心に魚類を研究しているお姿に強くひかれました。タイのお酒、メコンに誘われるまま、先生やお友達と語り合い、またギターを弾かれたりするご様子、そんなところにひかれました」
礼宮さま「付け加えると、(紀子さんは)非常に話題が豊富な方じゃないかと思っております」

−−ご結婚を決意されたのは、いつごろでしたか。礼宮さまからのプロポーズのお言葉と、紀子さんのご返事は。

礼宮さま「決意は、だんだん、徐々に、そういう方向に固まっていったというところでしょうか」
紀子さん「私も礼宮さまと同じく、徐々に気持ちを整理して参りました」
礼宮さま「プロポーズは……そうですね、確か昭和61年の6月26日だったと思いますけれども、『私と一緒になってくれませんか』と話した記憶があります」
紀子さん「私は『よく考えさせていただけませんか』と申し上げました」

−−先ほど、お2人は両陛下のところにごあいさつされたと思います。その時、両陛下はどんなことをおっしゃいましたでしょうか。

礼宮さま「このたびの婚約をうれしく思います。いままで2人が培ってきたものをさらに伸ばし、また、お互いに補いあい、よい家庭といいますか、よき宮家を築いていくことを期待しているとのお言葉でございました」
紀子さん「同じようなお言葉をたまわりました」

−−現在、(昭和天皇の)喪中で、ご自身も留学中のお立場ですが、そういう時のご婚約決定をどうお考えになりますか。両陛下から反対はございませんでしたか。

礼宮さま「現在、留学中、喪中ということでもありますが、ここ一、2年の間に川嶋家の方にいろいろ問い合わせ等が多くなって、私としても責任のあることですので、早い時期に公にしたいと判断いたしました。そうなりますためには、本日もございました皇室会議を経なければいけないわけですが、それにつきましては宮内庁としても特に異議はありませんでしたし、両陛下から反対もありませんでした」

◆結婚の抱負 新家庭像は
−−ご結婚の儀式はいつごろと考えていらっしゃいますか。新婚旅行のご希望は。

礼宮さま「現在は喪中ですので、明年1月の喪明けを待ち、それから考えていきたいと思っています。新婚旅行などは、今のところまだ考えておりません。結婚の後は、伊勢神宮とか神武天皇陵などの参拝もございます。また、昭和天皇のご生前にお耳に入れることができませんでしたので、武蔵野陵に参り、ご報告したいと思っています」

−−ご結婚されると、独立され、宮家を営まれるわけですが、今後のご自身のあり方、抱負というものがございましたら、うかがいたいと思います。

礼宮さま「新しい経験となるわけですけれども、いろいろな方からお導きいただきながら、2人でいい家庭を築けたら幸いと思っております。皇族としての抱負といたしましては、天皇をお助けする立場でございますし、与えられた皇族としての仕事をひとつひとつ、大切に果たしていくつもりでおります」

−−皇太子さまより先に結婚が決まりましたが、ご感想は。宮内庁は皇太子さまのご結婚をできるだけ早くと考えているようですが、お近くにいてどのような雰囲気でしょうか。

礼宮さま「兄の皇太子が早く決まればそれに越したことはなかったわけですし、私もそのことを強く望んでいましたが、先ほども申したような事情もございまして、私の方が先になってしまったということでございます。雰囲気? 以前に30歳までにできれば上出来というふうに申しましたけれども、やはり30歳までにできれば上出来なのではないかと私は思っております

−−暗い見通しですね。

礼宮さま「暗いと言いますか……。私もわかりませんけれども」

−−紀子さんは一般の家庭から皇室に嫁ぐことになりますが、これから皇族の一員になられるお気持ちは。

紀子さん「私は礼宮さまと4年にわたり親しくさせていただき、礼宮さまのお人柄、お考えから多くのことを学ばせていただきました。また両陛下、東宮殿下、それから紀宮さまが、明るい中にも責任あるお立場をご自覚になり、ご生活なさっているお姿を拝見させていただきました。ありがたく、まことに心強いことでございました。皆さまのお教えを賜りながら一つ一つ学んでいきたいと思っております」

−−紀子さんにお尋ねいたします。ご結婚されたら、どんな家庭を築いてゆきたいとお考えでしょうか。また、お子さまは何人ぐらい、お望みでしょうか。

紀子さん「礼宮さまとご一緒にのんびりと明るく、和やかな家庭を築けたらと思っております。後の質問についてでございますが、それについても、これからゆっくりと考えていきたいと思っています」

−−初めて結婚の話が出た時、(紀子さんの)ご両親は何とおっしゃっていましたか。

紀子さん「父は『自分の人生は自分の責任や判断で決めることが望ましい。よく考え、よく悩んだ上で、結論を大切にしなさい』と申しておりました。また、母は『紀子ちゃん、よく考えてみましょうね』と申しまして、そのあとで『はたち前半のころは豊かな経験をすると同時に、よく勉強し、ライフワークの基礎を作る重要な時期ですよ』と申しておりました」

◆勉学の見通し 今後の計画

−−これから結婚の日まで、学業など日々の生活についてどのように考えていらっしゃいますか。

紀子さん「私は現在、大学院生でございますが、礼宮さまは大変ご理解があるようで、そのご理解のもとに、時間の許す限り勉強を続けたいと思っております
礼宮さま「私も、まだイギリスの方でやりたい仕事、研究と申しますか、たくさんありますので、このことが一段落つきましたら、できるだけ早い機会にイギリスへ参りまして、前と同じような研究生活に戻れればと考えております」

−−(11日の)誕生日に礼宮さまから何かプレゼントがあったとうかがっておりますが。

礼宮さま「私からお答えさせていただきますと、何というか、写真立てみたいなものなんですね。ちょうど2人の人が入るような、そんなものをプレゼントいたしました」

−−中に写真は入っていたのでしょうか。

紀子さん「これから思い出深い写真を入れて、飾っておきたいと思います」

−−どこで求められたものなんですか。

礼宮さま「日本で」

−−紀子さんはご結婚後、大学院での勉強をどうなさいますか。

紀子さん「今後どんな生活を送るか、ちょっと分かりませんけれども、時間が許す限り勉強はずっと……一生続けたいと思っております

−−失礼な質問ですが、お2人は長い交際を続けていらっしゃいますが、けんかなどというのはなさったことはございますか。

礼宮さま「けんかの度合いにもよりますが、双方、からかったり、そんなことはいたしましたけれども」

−−涙を流したようなことはございましたか。

紀子さん「みなさん、ご存じだと思いますが、(礼宮さまが)英国にいらっしゃった日でございます」

−−プロポーズの場所はどこだったのでしょうか。

礼宮さま「場所は目白近辺。夕方、集まりがありまして、私が(紀子さんを)送って帰る途中、ちょうど横断歩道のところで信号待ちをしている間に、ついつい長話になって、その時に」

−−結婚までにお2人でタイへ出かけるとか、イギリスへお連れになるというお考えは。

礼宮さま「まだ、そういうことにつきましては全然考えておりません」

−−先ほどのプロポーズの話ですが、紀子さんは「よく考えさせていただきます」と答えられ、そのあとはどんな展開だったのでしょうか。

紀子さん「先ほど申しあげたように、徐々に気持ちを確かめあいながら、きょうになりました」

−−紀子さんは礼宮さまが初恋の人ですか。

紀子さん「そうでございます

−−(学習院大構内の)本屋で最初の出会いがあったとお聞きしていますが、その時の第一印象は。

礼宮さま「こちらのお父さまを前から存じ上げていたんですが、非常にお父さまの話し方と似ているなと思いました」
紀子さん「私はお友達と話してらっしゃるお姿を拝見して、思ったより気さくな方という印象を受けました」

−−ご婚約に至るまでに障害のようなものは感じられませんでしたか。

礼宮さま「私といたしましては、ほかからの反対は一切なかったと思っております」

−−皇太子さまの方から祝福のようなお言葉はございましたでしょうか。

礼宮さま「おめでとうということですね」

−−前回、イギリスに礼宮さまが行かれた時、涙を流されたということですが、また礼宮さまはイギリスに戻られます。ご婚約が決まられたことで気持ちはだいぶ楽になりますか。

紀子さん「これからは以前よりも親しくさせていただくことができるとうれしく思っておりますが、やはり、心に通じ合うものがございましても、距離が離れますと寂しいものでございます。おたちになる日はしんみりと涙を流すことになるのではないかと思いながらも、笑顔でご出発を送りたいと思っておりますが」

−−きょうはありがとうございました。お幸せに。

(記事終わり)


この婚約会見が行われた当時、私はまだ10代前半の子どもでした。しかし、この会見の紀子さんを見て私は一瞬で「ああ、この人ブリッコしてるな」とピンときました。一見おっとりしているように感じるのですが、少し上目使い気味のニタニタした笑顔からは「強かさ」や「下心」を感じてしまったのです。
我が家は親がほとんど週刊誌を読まなかったので、雑誌に掲載された紀子さんに関する記事なども当時はまったく目にしたことがありませんでした。それにも関わらず私は紀子さんを一目で「何か怪しい感じの人…」と思ってしまいました。
当時はまだ世間知らずの子どもだったにも関わらず、この時の「カン」は正しかったと今になって思うのです。

さて、婚約会見の中身ですが…お二人が述べている馴れ初めやプロポーズの経緯などは、100%信じて良い内容ではないと思います。公の会見に向けて多少の修正はしていると思って読んだ方がいいでしょう。

しかし動かしようがない事実なのは

●お二人の婚約会見が行われたのは「昭和帝の喪中であった」ということ。

●川嶋紀子さんが礼宮様と交際している件がだいぶ前からマスコミに漏れていたこと。

●兄上の皇太子殿下を差し置いて、先に弟の礼宮様が婚約してしまったこと。

●礼宮様も紀子さんもまだ学生の身分であったということ(紀子さんは一度も就職経験がないまま嫁いだ)、そして紀子さんは結婚後も国民の血税を使って大学院に数年も在籍し続けたということ。

●紀子さんは「一般家庭の出身」であること。

の5点です。

ページを改めて、お二人の婚約問題についてしばらく記事を書いていきたいと思います。

礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その1~眞子様の婚約報道を受けて

眞子様とK氏の唐突な婚約発表を見て、眞子様のご両親である秋篠宮ご夫妻の婚約のことを思い出した人々も多いと思われます。
当ブログは基本的にあくまでも「秋篠宮様」の件を中心に記事を書こうというスタンスですが、秋篠宮様を語る上でどうしても妻の紀子妃の存在をスルーするわけにはいきません。いつの日か必ず秋篠宮ご夫妻の結婚の経緯を記事にしたいと考えておりましたが、しばらくは別の記事を書く予定をたてて記事の下書きを準備しておりました。

しかし、眞子様の婚約発表報道を受けて、「秋篠宮ご夫妻の婚約問題は今記事にしておいた方がいい」という判断に至り、多少予定を変更して秋篠宮ご夫妻の婚約に関する記事をまず書くことにいたしました。

眞子様の婚約の件で、ご両親の婚約も改めてクローズアップされることを願います。

秋篠宮家に関する様々な「異例」は、まさにこの婚約から始まったと言っても過言ではありません。

秋篠宮ご夫妻の婚約に関する記事は秋篠宮様よりも紀子妃に関するものが若干多めになると思いますが、避けて通れない問題ですので何卒よろしくお願い申し上げます。
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