FC2ブログ

今後のブログ記事予定について

ここ最近、現政権とそのサポーター達のあまりの女性蔑視ぶりにうんざりし、どんなに秋篠宮様の人となりに問題があって皇嗣待遇にふさわしくないとここで述べたところで、現政権やその支持者は聞く耳を持たないだろうし(秋篠宮様が「男」であるならそれでいいのだ、彼の人格や人柄や素行などどうでもいいのだ、という思考停止を感じてしまうのです)、現政権の元では事態は良い方向には動かないのだろうか…と少し意気消沈しておりました。
数々のセクハラ・パワハラ事件を見ていても、加害者側の男性たちの人格や行いの酷さよりも、被害者側の女性たちに落ち度があると言いたげな主張が後を絶たないことにも失望しており、この国は予想以上に腐敗が進んでいたのだという事実を思い知りました。

拙ブログの今後の予定についてもどうすべきか色々考えましたが、「今上陛下の生前退位のドサクサ紛れでいつの間にか決まってしまった秋篠宮様の皇嗣待遇への疑問」という原点に立ち返り、「皇太子殿下や敬宮愛子様を差し置いて、秋篠宮様や悠仁様に皇統を移そうという謀反計画は既に数年前から始まっていたことだった」という問題を改めて取り上げることが必要だということを感じました。

皇太子殿下に退位や譲位を促す不敬な主張の跋扈、秋篠宮様を天皇にしたがっている勢力の存在、その先の悠仁様への皇位継承を確定させたがっている企み、平成皇室が陥っている危機など、数年前からの不敬で不穏な空気を雑誌記事は捉えていました。

まず手始めに、今上陛下・皇太子殿下・秋篠宮様が数年前から行われているとされる「三者会談」について書かれた記事をいくつかご紹介し、その会談の真の目的は何か、一体何が話し合われているのか等を改めて検証したいと考えております。
この三者会談こそが「曲者」だったと思わざるをえないからです。

秋篠宮ご夫妻「第三子」懐妊直後に出された画期的な記事 3~橋本治氏「男子をお産みになろうと危機は続く」

今回は、前回ご紹介した橋本治氏の論文の「後編」をご紹介したいと思います。
明治以降の因習を礼賛し男系男子カルト勢力が異様に幅を利かせ、男尊女卑思想やセクハラを全く悪びれない者たちが跋扈する現在、いっそう多くの方に目を通してもらいたいと願います。

婦人公論2006年4月7日号

緊急連載 紀子さまご懐妊と皇室典範の行方<後編>

男子をお産みになろうと、危機は続く
橋本 治


前号で「皇位継承は男系」という伝統は「幻」だと証明した。では、女性・女系天皇を認めれば問題は解決するのか?本当に「伝統を守る」こととは何かを論じ、現在の皇室に内在する危機の本質を明らかにする

◆皇室を長続きさせた女帝の「自信」

前号では、飛鳥~奈良時代の皇室と女帝(女性天皇)のあり方を詳しく見て、「皇位継承は男系男子が原則」というのは近代の思いこみであり、古代ではもっと実際的だったということを述べました。最大の原則は「天皇がトップに立つ」ということで、天皇が女性か男性かは問題にならなかった。
すなわち、古代日本の男性は、有能な女帝や皇后と、一緒に政治を進めていくことができた。いまの日本のトップにある男性はそれができない。女相手にまともな話ができるわけがないと思っていて、使える女性なら部下にしてやってもいい、という程度の認識かもしれません。
古代には、男女差別はなかったんです。60代の斉明天皇が軍隊を率いて九州まで行ってしまう。50代半ばの持統上皇は、大宝律令が制定されてから亡くなるまでの間、全国を巡幸して律令制度が隅々まで浸透しているかどうかを確かめている。どちらも女性で、当時としては大変な高齢なんだけど、これだけの行動力を示せたわけなんです。『日本書紀』や『続日本紀』のどこにも、「やはり女性はだめだ」なんて文章は一行だってありません。そもそも年若い天皇の指導者として「上皇(太上天皇)」のあり方を規定したのは持統上皇です。

ではなぜ称徳天皇以降、すなわち平安時代以降、長く女帝が出なかったのか。平安末期、鳥羽上皇が娘の八条女院を女帝にしようとした例もあり、少なくとも皇室には「女性天皇はだめ」という考えはなかった。それは、当時栄華を極めた藤原氏の都合だったと考えたほうがいいですね。藤原氏のやり方は、身分は低いが財産のある受領(地方官)層の娘を嫁にもらい、生まれた娘を天皇に贈って外戚となり、権勢を振るうというものでした。藤原氏にとって、天皇は男でなければだめだったわけです。
天皇は、藤原氏の婿になるような形で天皇として奉られる。だから、天皇を退位して上皇になる。そのことで藤原氏の牛耳る朝廷から独立し、別の権力を作ろうとしたのが、11~12世紀の院政時代です。
この院政の時代に源氏や平家といった武家勢力が台頭します。上皇のいる院の御所と、天皇を頂点とする朝廷と、命令系統が二つあるから、どっちがえらいのかが不明瞭な、多重権力の構図ができる。平家が栄えたと思ったら滅び、東国では鎌倉幕府が成立し、朝廷では天皇がいて、別に上皇がいて、どれが正統の主権者なのかは、そのときの力関係次第、というぐちゃぐちゃな状態になっていく。
この構図は江戸時代にまで持ちこされます。武士の家系は男系男子の継承を基本とするので、徳川将軍家もそうなります。でも、大奥では「将軍のご生母様」がデンと構えていて、老中より権力を持っていたりしたわけです。
それが19世紀になって黒船が来航し、幕末の動乱を経て成立した明治政府は、「近代」という外圧のなか、「自分たちなりの近代日本の形を作らなければならない」と考えて、男性の「戸主」を中心とする家長制度を作ります。皇室も、現行の「皇室典範」で男系男子への継承しか認めなくなった。
それは、ある時代の一つのあり方だったんじゃないか、と私は思います。「男系男子に限り」という原則を立てるなら、そのためには、母親候補の複数の女性を存在させることが必要なんです。幸い、代々の皇后に男子のご出産はあって、「男系男子が生まれてこなかったらどうする?」という疑問は必要なかった。でも、現実にそれを考える必要は生まれてしまった。日本の皇室がこれだけ長く続いてきたのは、変な原則に拘泥せず、フレキシブルにやってきたからだということを、もう一度考え直すべきだと思います。

源平合戦の時代、追いつめられた平家は、幼い安徳天皇と三種の神器を持って西海に逃げます。在位の天皇が都からいなくなったその時、後白河法皇は「かまわん、ほっとけ」とばかり、さっさと孫の後鳥羽天皇を三種の神器なしで即位させてしまう。
さらに鎌倉時代になり、上皇が武力で幕府を倒そうという動きを見せると、幕府側は「主上御謀反」と言った。治天の君である上皇が、新興勢力の武家に「御謀反」をする。「謀反」に敬語がつくという、常識では考えられない発想を平然と口にする日本人の政治に対する思考の柔軟さは、天才的です。「御謀反」を起こした上皇様が敗れて流罪になっても、天皇制そのものは残るわけです。
「天皇以外に政治の補佐役は必要だ」というのは、持統天皇以来の伝統です。持統天皇が孫の文武天皇に譲位した後も同格の上皇として国政に関わって以来、天皇と、天皇経験者である上皇とのツートップで支配する形が当たり前とされた。別に持統天皇は、未来に続くルールとして決めたわけではありません。「私が孫を守る!」という思いと、「私は国政を担当する!」という自信が、後に続く二重構造を作った。結果として、そういう持統天皇の「自信」が、日本という国のなかで、皇室を延命させてきた。日本とは、まず目の前の現実があって、理屈は後からついてくる国だったのです。

◆敷居が高すぎる現在の皇室

現代の最大の問題は、皇室という特殊な環境に生まれた方々が、男女を問わず、配偶者が簡単に見つかる状況がないということです。結局、そこに行き着きます。
現在の皇室は妙に敷居が高すぎる気がします。1950年代、今の陛下の弟君である常陸宮殿下は、「火星ちゃん」という愛称を付けられ、そんなタイトルの漫画まであった。そのくらい親しみがあった。そんななか、『ローマの休日』(53年)が公開された。オードリー・ヘップバーン扮する王女が民間の世界に飛び出していく映画です。その数年後の美智子さまご成婚は、民間人(私たち)の代表が、王子さまお姫さまのいらっしゃる世界に入っていった。逆のパターンだけれど、『ローマの休日』のロマンチックな物語が身近に起こったので、いわゆる「ミッチー・ブーム」が起きたんですね。
美智子さまは「耶蘇の娘」などと非難されたり、苦労もなさったらしけど、昔の方だから、まず嫁ぎ先に慣れなければという覚悟を自然にお持ちになったと思います。実際、一度もお里帰りをされていない。一方、雅子さまは「働く女性」だった。しかも外務省北米二課という超エリート。「働く女性」が当たり前になって、もう一度、女性が自然に活動していた古代のあり方が見直されるのです。
8世紀の光明皇后は、民間出身であっても、聖武天皇の補佐役として十分な存在理由を示していた。いまの皇室に光明皇后みたいな方が入っても、「そんなことはなさらないで」と周囲から行動力を制限され、神経が参ってしまうかもしれない。それって、ノーマルな状態なんでしょうか?
「皇位継承は男系なのが伝統だ!」と、歴史の事実からかけ離れた観念だけが声高に叫ばれると、皇室そのものが現実から遊離しかねない。
皇室とは一つの「家」です。天皇は「天皇家」の長で、それが長く続いてきた「万世一系」というあり方の根本です。人間は結婚して「家」を作る。結婚だけならば、男と女という二人の問題なのだけれど、「家」とは本来は、子供を作り、後世に伝えていくというものだった。大阪・船場の繊維問屋は、山崎豊子の小説『女系家族』の舞台ですが、甘やかされて育った男子ではなく、優秀な番頭を入り婿に迎えて家を継いでいくわけです。すなわち、ここでいう「家」は法人に近い。
会社のような法人組織を維持する上で、ある程度、私的な感情を抑えるのは当たり前ですが、かつては「家」もまた、絶やしてはいけないものとされていた。しかし現在の「家」は、愛情などの私的な感情で結びついているものとされていて、その結果、むき出しの個人感情がぶつかりあう場になりがちで、そのなかで「家」という社会単位の意味が薄らぎ、同時に人間の社会性も薄らいでいる。

◆内親王をデートに誘えますか?

現在の皇室の問題は、このような社会的風潮のなかで「どうやって皇室という家を維持していくか」です。お妃や内親王の結婚相手を民間に求めるのなら、まず、社会全体の問題として、「家」とはなんなのか、そこから考えてみないことには、解決はつかないはずです。
日本の皇室だけではありません。英国の王室には「王族としか結婚できない」という内規があったんですが、第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパの他の国の王室から配偶者を迎えられず、英国王室が絶えてしまうかもしれないというので、民間人との結婚を許可した。それを認めなかったオーストリアのハプスブルク家は消えてしまった。ダイアナ元皇太子妃がチャールズ皇太子と結婚した結末は、ご存じのとおりだけれども、「特殊な世界に嫁(婿)に行くということのプレッシャーに耐えるのは嫌だ」という風潮はもはや世界的で、「王室」というものが存続しにくい時代になっている。
一般国民だって、ナンパと合コンと出会い系サイトなしに、パートナーとなりうる異性に巡りあう機会は限られてしまうでしょう。まして皇室となると…。黒田清子さんも、お相手が兄である秋篠宮殿下の同級生という縁があったからこそ結婚が成り立った部分があるはずです。内親王に気楽に電話して、デートにお誘いできますか?無理でしょ。
たとえ、いまご懐妊の紀子さまが男子をお産みになっても、皇太子妃のなり手が見つからなければどうします?皇室典範を改正して愛子さまが皇太子になっても、すんなりお婿さんが決まるかどうかは分からない。皇室のあり方を考えないと、「お世継ぎ問題」はいつでも起こりうるんです。結婚は両性の合意に基づくというのが現在の常識です。そこで、皇室に「自由恋愛」はありうるのかという問題だって起こりかねないんです。
天皇というものは、公的な存在です。でも、人間である以上、私的な部分だってある。周囲の思いこみによって、皇族には私的な感情が許されないままでは、今後も同じ危機は繰り返されるばかりです。古代の女帝の行動や発言は、現在の皇族の方々よりもはるかに人間的でしょ。そういう実際性があって、皇室は連綿として続いてきた。近代以後の浅い「伝統」でがんじがらめにせず、もう少し人間的な環境にしたほうが、皇統の維持のためにもいいのではないでしょうか。
たとえば英国の王室は、日本の皇室と同じく公的な性格が強い。だからこそ、スキャンダルが続いている。一方、オランダや北欧の、王室の方でも気楽にデパートに行ける国では、かえて問題が起こっていない。カートを押してお買い物もし、公的行事になれば正装して宮殿で手を振るというふうに、パブリックとプライベートの使い分けができている。
公私が一体化した状況に押し込められた方の言動が、「人格を否定されて、かわいそう」なのか、それとも「皇室の一員であるという自覚に欠けて、わがまま」なのか、線引きすることすら難しい。そんな状況で、皇族はどうあるべきかなんて、論じるだけ無駄というものです。

◆もっと素直にフレキシブルに考えよう

見方を変えれば、なぜ、そこまでして皇室を残さなければならないの?という疑問も出てくるかもしれませんが、私は「そこにあるものは、必要だから、ある」と考えます。「そこにあるものは、あってはならないものだから、なくしてしまえ」となると、ロシア革命後のソ連じゃないけれど、大きな問題が起こる。「そこにあるもの」が存在意義をなくすには、長い時間がかかるものなんです。
繰り返しますが、今回の議論の多くは、明治時代にはじまった近代天皇制を、古代から連綿と続く揺るぎないルールであるかのように錯覚しているのです。
かつての天皇のほうが、もっと人間的な環境に置かれていた。女系か男系かという区別はなくフレキシブルな継承が行われていた。女性でも、しかるべき人なら天皇になれたし、天皇になってしまえば、文句なく「優れた天皇」になったのです。そういう時代があったことを認め、その上で今後のあり方も考えるべきです。しかし、どうも日本の政治家は、そのあたり素直になりにくい人たちが揃っているような気がします。

今回の皇位継承問題は、論理に縛られず、今ある皇室の現実、社会の現実を認め、とりあえずいちばんいい方法をフレキシブルに考え、女性・女系天皇を認めるなら認め、それでトラブルが起こったら、他の解決方法を考える、という当たり前の発想に戻って議論されるべきだと思います。
(記事終わり)


上記橋本氏の論文は一部認識の誤りはあるものの(美智子様が一度もお里帰りをされていないというのは誤りで、実際は美智子様は結婚後早々にお里帰りを許され、その後も雅子様よりも多く実家との交流を継続されていました)、おおむね内容には賛同します。
面白いのは「内親王をデートに誘えますか?」の箇所で、小室圭さんを連想せざるをえないことですね。彼は果敢にも(?)内親王である眞子様に声をかけ、デートを重ねてきたツワモノでした(笑)。これは小室さんの肝っ玉の太さもありますが、眞子様が内親王の割には庶民的で敷居の高さを感じない方であったという要因も大きいと思います。ただ、橋本氏は現在の眞子様・小室さん問題までは予想していなかったでしょうし、橋本氏が指摘している「皇室における家と個人の問題」についても考えさせられる状況が生まれています。眞子様個人の思いを優先させるなら結婚を認めてあげるのが筋だと思うし、「家」というものを重視して個人の感情だけではどうにもできないと考える人は、眞子様の希望など後回しにするでしょう。

「皇位継承や皇室のあり方をもっとフレキシブルに考えるべき」という点は重要だと思います。実際、美智子様は皇后という立場にありながら、今上陛下よりも話題になったり目立ったりすることが多い方です。ご本人もそれをよく分かっておいでの上で行動されているように見えてしまいます。一時、美智子様は「女帝」とか「女社長」と揶揄されたこともありましたが、それだけ美智子様の積極的な行動が放置されてきたのだと思うのです。
美智子様のご活動はここまで黙認されていながら、なぜ雅子様や敬宮愛子様にはそれが許されないのでしょうか。橋本氏の指摘するように、皇后や皇太子妃をはじめ、女性皇族の活躍をもっとフレキシブルに認めるべきであるなら、それを全ての女性皇族に開放するべきなのです。現在は美智子様のご活躍だけが異様に絶賛される一方で、雅子様は結婚当初から籠の鳥にされて海外で活躍させず、敬宮様は女帝に即位することが許されていません。マスコミが取り上げるのは秋篠宮家の女性皇族の活躍ばかりで、ほかの宮家の活動は大々的に報道しません。こういう偏りが、平成皇室に対する偏見を招いていると思います。
橋本氏が「今の皇室は本当に国民に開かれているのか?敷居が高すぎないか?」と指摘しているのも、一部の女性皇族だけの活躍のみ許容され、皇室報道に偏りが生じていることも大きな原因でしょう。

「フレキシブルな皇室」という面で、例えばこのまま男系男子カルトの主張だけが通ってしまい、秋篠宮様の立皇嗣により無理やり秋篠宮系統に皇統が移ってしまい、秋篠宮様と悠仁様が「男系男子」ということだけを笠に着て好き勝手なお振舞いをしたら…そして国内外で皇室や日本国に対する敬意も何も失われてしまったら…その時、日本国民や海外の熱烈な希望によりふがいない秋篠宮様と悠仁様を排除し、正統な直系のお血筋である敬宮様を「元の正しい場所」にお戻しし、玉座に座っていただく…ということもあって良いと思うのです。
既に民間人として生きている旧皇族とやらの人々を皇族復帰させるなんていう考えをしている連中もいるわけですから、いったんは皇統から外れたように見える敬宮様を「本来の正しい場所=玉座」にお戻しすることが、当然あってもいいはずでしょう?

明治以降の因習にとらわれ、柔軟な考え方ができなくなっている勢力が跋扈している今の日本こそ、12年前の笠原英彦氏や橋本氏の論文に価値が出てくると言えるでしょう。

秋篠宮ご夫妻「第三子」懐妊直後に出された画期的な記事 2~橋本治氏「男系継承の伝統は幻である」

今回は、以前ご紹介した拙ブログ記事
秋篠宮ご夫妻「第三子」懐妊直後に出された画期的な記事 1~笠原英彦教授「典範改正議論はやはり必要」
の姉妹編として、橋本治氏が書いた女帝賛成論文をご紹介したいと思います。
時期的に、紀子妃の第三子妊娠が発覚した時に出されたものとなっています。

婦人公論2006年3月22日号

緊急連載 紀子さまご懐妊と皇室典範の行方<前編>

「男系継承の伝統」は幻である
橋本 治


「有識者会議」の「女性・女系天皇」を認めようとの提案に、「皇位継承は男系が原則」と保守派は反対する。だが、本当にそうなのか?
緊急連載第一回は、古代の女帝のあり方を論じ、皇室典範論の虚偽を粉砕する

◆「皇位は伝統的に男系承継」という原則は本当か

昨年11月、「皇室典範に関する有識者会議」が、「女性・女系天皇」を容認する報告書を発表し、それ以来、侃々諤々の議論が続いています。
そもそも、この「有識者会議」が結成されたのは、皇室が断絶の危機にあるからです。皇位継承権を持つ宮様方の家には女子しか生まれていない。明治22(1889)年に制定された「皇室典範」では、天皇に即位できるのは「男系男子(父が皇族の男子)」に限るとされていて、(懐妊中の紀子さまが男子をお産みになれば別ですが)皇位継承者がいなくなってしまう。だから「女性・女系天皇」を認め、皇太子殿下の長女・愛子内親王に皇位を継承させ、そのお子様が後を継げるようにしよう、というわけです。

これに対して保守派から、古来、皇室は「男系」で継承されてきた。過去には女性天皇が存在したが、男系継承を守るための、やむをえない“中継ぎ”だった。男系継承の伝統を維持するため、別の策を考えるべきだ、と反対の声が出た。
問題は、「女性・女系天皇」容認派は「伝統に拘ってる場合じゃない」と言ってるだけで、「皇室は男系継承が伝統的なあり方」という点で反対派と一致していることです。
日本史上、女性天皇(女帝)は、古代に8代6人(うち2人は2度、即位)、江戸時代に2代2人いますが、ここでは古代に話を絞ります。史上最初の女帝・推古天皇から称徳天皇までを歴史事典に載っている系図で見ると、確かに女帝の次は途切れている。古代は、政治的経験を積んでそれなりの年齢に達していなければ天皇になれないという不文律があり、血筋的には天皇になるべき皇子がまだ幼い場合にのみ、女帝がリリーフとして起用され、その皇子が成人になるのを待って譲位した、と説明されていますが、果たしてそうか。
図1の系図には「后(皇后)」が書かれていないでしょう。この時代は一夫多妻制ですが、「后」は皇族女性に限られ、それ以外は「妃(みめ)」として区別されていた。この「后」が重要なポイントなんです。

20180326_222509.jpg
(図1)

◆「皇后」は天皇を代行する能力を求められていた

図2-1、図2-2の、「后」や「妃」を含めた系図は私が作ったものです。この系図と見比べながらお付き合いください。まず、右上のほうにある継体天皇(450?~531)のあたりにご注目。

20180326_222516.jpg
(図2-1)

20180326_222532.jpg
(図2-2)

継体天皇が即位する前に、皇統はいったん断絶しています。前代の武烈天皇は子供を作らないまま崩御し、皇位を継ぐべき男子がいなくなった。そこで実力者の大伴金村が、越前(福井県)にいた遠縁の皇族を連れてきた。現在、「女系天皇」反対派が、戦後、皇室から離れた旧宮家を復活させ、そのなかから男子を後継者に選ぶという方法も検討せよ、と主張していますが、ちょっと似てますね。
ところが当時の大和朝廷の豪族たちは、一斉に反対した。結局、武烈天皇の父・仁賢天皇の娘である手白香皇女を皇后として迎え、そこで生まれた皇子を皇位継承者とするという妥協案が出て、やっと認められ、継体天皇になるわけです。
継体天皇の崩御後、後継者争いが起こります。継体天皇が地方豪族の娘に生ませた長男の安閑天皇と、手白香皇女に生ませた欽明天皇(509~571)が同時に即位し、対立する事態になった。面白いのは安閑天皇が、仁賢天皇のもう一人の皇女で、手白香皇女の異母妹の春日山田皇女と結婚していることです。安閑天皇は即位して2年目に崩御、弟の宣化天皇が後を継ぎますが、やはり仁賢天皇の皇女・橘仲皇女を皇后に迎えた。
宣化天皇も4年目に崩御、欽明天皇は30余年という長い安定した治世をまっとうします。武烈天皇の死に始まった皇統の危機が、手白香皇女という「后」を経由し、仁賢―手白香―欽明という女系で皇室継承が保たれたわけで、継体・安閑・宣化は入り婿、“中継ぎ”なんです。
現代に当てはめますと、(紀子さまが男子をお産みにならなかった場合ですが)旧宮家を復活させてしかるべき男子を選んだとして、国民感情として納得できるだろうか。でも、愛子内親王と結婚させ、生まれた子を皇太子とすれば、現在の陛下へ受け継がれてきた血筋は守れるから、受け入れられやすいのではないか、という話です(愛子内親王のご承諾という高そうなハードルがありますが)。

ところで欽明天皇は即位した際、「私は未熟なので、亡き安閑天皇の皇后だった春日山田皇后(皇太后)に政権を担当してもらいたい」と申し出てます。欽明天皇は31歳(数え、以下同)でしたが、春日山田皇后のほうが「百揆に閑いたまえり」、政治的経験を積んでいて統治者としてふさわしいと述べたのです。
現代の日本人は「国家を統治するのは男性であり、女性がその地位につくのは特別な理由があるからだ」と思いこんでいて、「女帝中継ぎ論」が出てくるわけですが、古代人は「女性ではいけない」という考え方はしていなかったんですよ。(おそらく妊娠出産等の生理的な理由から)天皇は男性のほうがいい、という実務的な考えはあったでしょうが、皇后もまた、天皇を代行しうる能力が求められたのです。
実際、史上初めて女帝となった推古天皇は、欽明天皇の後を継いだ敏達天皇の皇后でした。敏達の後を継ぐべき押坂彦人大兄皇子は早世したらしく、その後、朝廷内で精力を伸ばした蘇我氏の血を引く用明天皇、崇峻天皇と、異母弟たちが即位しますが、用明天皇は即位2年目で亡くなり、崇峻天皇は暗殺される。天皇にふさわしい年齢の皇子がいなくなった。
そこで推古天皇(554~628)が群臣に推されて即位する。遠縁の「男系男子」より、「正統なる先帝の后」のほうが適任とされたわけです。実際、推古天皇は36年の安定した治世をまっとうします。
推古天皇崩御後、押坂彦人大兄皇子の子の舒明天皇が即位し、皇位は手白香皇女の血を引く、欽明―敏達―(押坂彦人)と続く正統の皇族に戻りますが、13年の治世を経て崩御すると、その皇后が、二人目の女帝・皇極天皇として即位します。

◆二人目の女帝・皇極天皇は「女」をバネに突っ走った

この皇極天皇の御代に、有名な大化改新(645年)が起こりました。皇極天皇の両親は茅渟王と吉備姫王、皇子や皇女と呼ばれる方々よりランクの落ちる皇族です。蘇我氏は、格下王族出身の「先代の未亡人」を立てておいて、専横を極めた。これに対し、先代の子である中大兄皇子が叛乱を起こし、自ら皇極天皇の御前で蘇我入鹿を斬殺する。わが子が手を血で汚すのを眼のあたりにした皇極天皇は、弟に位を譲ってしまう。
皇極天皇は推古天皇と同様、「しっかり者の未亡人」的存在でした。ところが、いざ弟に譲位してから豹変します。
それまでの天皇は、神社のように質素な板葺の宮に住んでいた。しかし、姉から譲位された孝徳天皇は、格式を破って、都を飛鳥から難波(大阪)に移し、大阪湾を見霽かす、豪華な宮殿を建てた。孝徳天皇は外国かぶれで、壮麗な宮殿を建てて贅を尽くす中国皇帝を真似したんでしょう。先の皇極天皇は、長男の中大兄皇子、次男の大海人皇子、さらには孝徳天皇の皇后になっていた娘の間人皇女まで引き連れて飛鳥に帰ることになる。「自分は知らなかったけど、天皇にはこれだけの力があったのか」と気づいたんでしょう。
孝徳天皇がその直後に亡くなると、彼女は重祚(2度目の即位)して斉明天皇となり、弟に張り合って大土木工事を始めます。近年、飛鳥でその跡が発掘されて、彼女の宮殿周辺は、水路が張り巡らされ、石造りのモニュメントが並ぶ壮麗な都だったことが実証されました。
さらに、朝鮮半島で日本と同盟関係にあった百済が、唐と新羅の連合軍に攻められ、救済要請が来ると、60代半ばの女帝は「私が行きます!」と軍船に乗り、九州の前線基地まで行ってしまう。
斉明天皇は傀儡で、実質的に仕切っていたのは後に天智天皇となる中大兄皇子だったと言われていますが、50歳をすぎて天皇であることの凄さを実感した女帝が、前向きに突っ走ったと考えるほうが自然です。斉明女帝のあり方は、現代の中高年女性のあり方とそっくりです。
斉明天皇が九州でほどなく崩御し、朝鮮半島に攻め入った日本軍が白村江で大敗北を喫すると、中大兄皇子は内政に転じ、都を奥地である近江(滋賀県)に遷す。むしろ、母親と比較して、後ろ向きで慎重な息子なんです。

◆持統・元明・元正 女帝たちの「女のエゴ」

斉明天皇の後を継いだ天智天皇が亡くなると、その子の大友皇子と、弟の大海人皇子との間に後継者争いが起こり、いわゆる壬申の乱が勃発します。大海人皇子が勝利し、即位して天武天皇となる。
興味深いのは、天武天皇の御代に「宮廷に出仕したい者は、男女を問わず申し出よ。女性の場合、夫の有無や年齢を問わず、採用基準は男性と同じにする」という、男女共同社会参画法案みたいな命令が出されていることです。天武の皇后である鸕野讃良皇女は、『日本書紀』に「天皇を佐けまつりて天下を定めたまう」とあり、実際、おおいに手腕を発揮していますが、彼女のための女官を募集したのでしょう。
その鸕野讃良皇女にはひとつだけ煩悩があった。我が子である草壁皇子を天皇にしたかったんです。天武天皇は多くの妃を持ち、子供もたくさん産ませています。いわば彼女は、姉や他の妃たちとの寵愛争いのまっただ中にいた。『大奥』みたいな話ですが、天武天皇崩御の直後、彼女は後継者争いのライバルになりそうな姉の腹の大津皇子を、謀反の疑いをかけて処刑した。ところが、そこまでして皇位につけたかった草壁皇子がほどなく急死してしまう。
そこで鸕野讃良皇女は自ら即位して持統天皇になり、飛鳥浄御原令施行、戸籍制定(庚寅年籍)、藤原京造営と八面六臂の大活躍をした後、草壁皇子の忘れ形見である15歳の珂瑠皇子に譲位、その後も「太上天皇(上皇)」として、即位した文武天皇を補佐し、702年、大宝律令を公布し、律令国家の体制を整えた。史上初の「院政」を行ったわけです。その年、持統天皇は亡くなります。
ところが、その5年後、文武天皇が25歳の若さで崩御します。その子の首皇子はまだ7歳。そこで即位したのは元明天皇、文武天皇の母で、亡き草壁皇子の妃だった人です。8年後、彼女は55歳で譲位しますが、15歳になった首皇子は人見知りが激しく、まだ表舞台には出せないからと、元明天皇の娘である36歳の元正天皇が即位します。9年の治世を経て、やっと首皇子が即位し、奈良の大仏で有名な聖武天皇となった。
形だけみると、持統、元明、元正の三女帝は、珂瑠皇子や首皇子が成人するまでの“中継ぎ”に見えなくもない。しかし、他に男系の皇子として天武天皇の長男の高市皇子や、その子の長屋王などがいた。2人とも朝廷を代表する実力者で、男系継承が本来のルールだったならば、彼らが天皇になってもおかしくない。何故、持統、元明、元正と3人の女帝が立ったのか。ヒントは元明天皇が即位したときの詔にあります。
「持統天皇は文武天皇に皇位を譲り、二人並んで天下を治めてこられた。これは天智天皇が定められた永遠に変わることのない不改常典に基づくものである」
この不改常典とは何か。具体的には、「皇位は親から子へと受け継がれるのが、わが国古来の法である」というものです。しかし、そんな法が本当に存在していたのなら、天智天皇の崩御後、その長男を死に追いやって即位した、弟の天武天皇はなんだったてことになる。これが「天武天皇の定めた」なら分かりますが、なぜ、「天智が定めた」とされたのか?
図2-2の系図を見てください。持統天皇も元明天皇も、実は天智天皇の娘ということで共通しているんです。そして、元明天皇の子である文武天皇や元正天皇は、“女系”で天智天皇と繋がっている。つまり元明天皇は、「天智の娘である私は、天智が定められた法に則って、私の娘に譲位する」と宣言した。すなわち「天智の血を引く私たち以外に皇位は渡さない!」というわけです。そこにあるのは「男系」か「女系」かといった原理原則ではないんですよ。

◆光明皇后と孝謙女帝 現代的すぎる母娘関係

聖武天皇の後継とされたのは、光明皇后との間に生まれた皇女、阿倍内親王、日本史上唯一の女性皇太子です。
光明皇后は、この頃台頭してきた藤原氏の出身、初の民間出身皇后で、「悲田院」「施薬院」
といった福祉施設を建設するなど、実力ある女性です。聖武天皇には他にも子供がいたけれど、藤原氏は皇位継承者にも、同族の血を引く阿倍内親王を押し込んだわけです。
ただ、これまでの女帝の多くは「先帝の后」でした。例外は元正天皇で、病弱で婚期を逃したらしく生涯独身なんです。即ち「既婚者の女帝」はいても「女帝が結婚する」という前例はなかった。そういうわけで、阿倍内親王は一生独身で通すことを暗黙の前提にして皇太子になる。
彼女には、当時第一級のインテリである吉備真備が家庭教師につけられ、優秀な母親の期待を一身に背負ってエリート教育を受けています。32歳で即位して孝謙天皇になり、9年後に淳仁天皇に譲位しますが、理由として「お母様に孝養を尽くす時間がないから」と述べるほど母親孝行な娘でした。
ところが譲位して4年後、母親が亡くなって2年後、突飛な行動に出ます。「淳仁天皇は私をちっとも敬わない。今後、小さな案件は天皇に任せるが、国家の大事は上皇である私がやる!」と宣言。さらに天皇の腹心・藤原仲麻呂を謀反人として追討、淳仁天皇を廃し、重祚して称徳天皇となり、病に倒れたとき加持祈祷をしてくれた縁で恋に落ちた道鏡という僧侶を取り立てる。
孝謙天皇が即位した後も、母の光明皇后は、皇后を補佐する紫微中台の長官となった藤原仲麻呂とともに、持統天皇が孫を後見したように国政に関与していた(父の聖武天皇は怨霊をおそれて遷都を繰り返すなど、精神不安定で、譲位後は存在感を示していません)。野心家の仲麻呂は、皇后のご威光を楯に権力を拡大しますが、孝謙天皇は「お母様は仲麻呂とともに、私を支えてくださってる」とありがたがっていた。
だが、譲位してみると、誰も彼女に敬意を払わない。淳仁天皇は、仲麻呂の死んだ息子の妻をめとり、仲麻呂の邸に住んでいました。いわば仲麻呂は、もはや皇位にはない孝謙を無視し、“子飼い”の淳仁天皇と好き勝手をしている。彼女の気持ちを忖度するとこうです。「私はお母様に言われたとおり学問に励み、皇太子になり、独身を貫いてきた。挙げ句、世継ぎがないという理由で譲位させられ、蔑ろにされる。私はお母様と仲麻呂に利用されただけ?」
かくしてエリート女性の逆襲が始まります。重祚して2年目の秋(765年)、道鏡を太政大臣禅師に任命し、年号を天平神護から神護景雲と改元します。光明皇后が立后した年に年号が天平となって以来、天平勝宝、天平宝字と一貫して元号には「天平」がついていました。その「天平」を外すことで、母親の呪縛を断ち切ったのです。48歳にして。
なんだか現代的すぎる母娘関係ですよね。彼女と道鏡の関係は、古代史上のスキャンダルですが、更年期間近になった女性が、「私だって子供を産んで、後継ぎを作る可能性がある」と考えての行動だと思います。結局、子供に恵まれることなく53歳で死去し、その後長く、女帝は絶えることになります。

◆古代のほうが現代より男女平等だった

お気づきかと思いますが、この時代には、女性をワンランク落ちるものだという思いこみが、まったくなかったんです。有能な女性は有能な者として遇され、国政を仕切った。男性であっても無能なら崇峻天皇のように平気で暗殺された。
では何故、女帝が絶えたのかは次回述べますが、少なくとも、たかだかできて100年の「皇位継承は男系男子に限る」というルールを皇室の伝統と思いこみ、歴史上の女帝を“中継ぎ”という例外として片付けてしまうのは、近代の幻想に縛られた発想なんです。
(つづく)


軽やかな口調で書かれた文章ですが、男系男子固執派には耳の痛い話が次々と繰り広げられ、古代の女帝たちの強さやたくましさと相まって爽快な気分にさせてくれる内容となっています。古代天皇の歴史がコンパクトにまとまっており、一読するだけで大まかな内容を掴むことが可能となっています。
古代は「男子だから~女子だから~」といった偏見も差別もなく、実力、能力、行動力があれば女性の活躍を認めてきた歴史があり、男子でも能力がなければ淘汰される時代でもあったわけです。そして橋本氏も指摘している通り、「男系男子継承の歴史」などたかが100年ちょい程度のものでしかないのです。

新天皇陛下の即位儀式の一部である「剣璽等承継の儀」に女性皇族が一切参加できないというニュースは「あまりにも時代錯誤」「新天皇陛下の一人娘である敬宮愛子様も参加できないのはあまりにもおかしい」という意見が噴出しました。
また、相撲の土俵の女人禁制問題にしても「伝統」だと言われていたものが実は明治以降の悪しき因習でしかなかったことが明らかとなりましたし、この国で頑なに「伝統」と言われていたはずの制度が、実は単に歴史の浅い男尊女卑制度にすぎないという実態が徐々に明るみになりつつあります。
それのみならず、音声記録まで残されている財務事務次官のセクハラ発言問題も起き、この国の女性蔑視の病理は予想以上に深刻な段階にあるということを改めて思い知りました。あまりにも醜悪で言葉がありません。

明治以降の男尊女卑主義をベースにした思想にとらわれている安倍政権の下で「秋篠宮立皇嗣」が一方的に短期間で決められてしまいましたが、そのような中で次々と上記のようなニュースが明るみに出てきたことに、何か大きな意義を感じてしまうのです。
代替わりを目前に控えた平成末期、「秋篠宮を立皇嗣させてはいけない、敬宮愛子様の即位を念頭に入れた典範改正議論をきちんとしなさい」ということを我々に促しているような、そんな大きな時代のうねりを感じるのです。

次回は、橋本氏の論文の後編をご紹介したいと思います。

紀子妃の弟さんの離婚記事~雅子様の妹さんの件を叩いている人たちへ

ブログの更新が滞ってしまい、大変申し訳ございません。現政権の醜態や「土俵は女人禁制でいいのか否か」という明治以降の女性差別的な因習問題などを追っていくにつれ皇位継承問題と重ねて考え事が多くなり、頭の中を整理しきれないでおりました。

一部の雑誌で雅子様の妹さんのプライベートなことが記事になっていますが、実は過去に紀子妃の弟さんもプライベートで大きな変化があり、記事になっていました。
離婚などというものは夫婦当人にしか分からないことも多く、第三者が口出しすべきことではないと思います。しかし、雅子様の妹さんのことが殊更記事に取り上げられて、また雅子様叩きの道具として使われることになるのは許しがたいです。

今回のブログ記事は、雅子様の妹さんのことをとやかく言っている人々に向けて取り上げさせていただきたいと思います。
雅子様たちを叩くのであれば、紀子妃や弟さんも同じように叩かなければ筋が通りませんから。

週刊新潮2013年3月14日号

「紀子さま」実弟が妻の不貞でシングルファーザー
皇室に届いた「悠仁さま」叔父夫婦が崩壊の知らせ


次々代の「天皇候補」を擁する秋篠宮ご一家は、さぞやお嘆きのことだろう。紀子さま(46)の実弟にあたる獣医師の川嶋舟さん(39)が昨年、人知れず離婚していた。それも原因は妻の“不貞行為”にあったというのだから、そのご心中は拝察するに余りある。

あの忌まわしい記憶から2年。被災地は、さらなる復興へと歩を進めている。が、その「礎」となるはずの、歴史と伝統に彩られた神社で、ある“不祥事”が起こっていた。
起源は遥か平安時代にまで遡るという神事「相馬野馬追」。毎年7月に500騎以上の騎馬武者が終結する世界最大級の馬の祭典で、わけても重要な「総大将出陣式」が行われるのが、福島県相馬市にある相馬中村神社である。
400年の歴史を有するこの神社で禰宜(ねぎ)を務めるのは、宮司の長女・田代麻紗美さん(33)。彼女と川嶋舟さんは2006年4月29日、この地で華燭の典を挙げていた。
紀子妃のご成婚当時は初々しい学生服姿だった舟さんも、学習院高等科を卒業後は麻布大、東大大学院で獣医学を専攻し、現在は東京農大で講師を務め、獣医師としても活動している。麻紗美さんとは02年、野馬追に出る馬を飼育しているいわき市の牧場で知り合い、交際へと発展したという。
06年7月には、東京で披露宴にあたる「昼食会」が催され、秋篠宮ご夫妻も揃ってご出席された。この時に悠仁さまをお腹に宿されていたのだった。
「結婚以来、舟さんは東京で単身赴任を続けており、毎月相馬に“帰省”する生活でした。翌年には長女が誕生しますが、赤ちゃんは麻紗美さんが実家の神社で育ててきたのです」(夫婦を知る関係者)
一昨年の大震災では、舟さん自身も被災した。帰省のため常磐線に乗車中のところを大揺れに襲われ、車両は丸ごと津波に呑まれてしまう。
「すんでのところで難を逃れた彼は、2時間歩き続けた末にようやく中村神社へ辿り着きました」(同)
直後、仲間と2トントラックやキャンピングカーに分乗して都内に戻り、救援物資を調達。相馬にとんぼ返りした“奮闘”については、当時報じられたこともあった。

その舟さんが昨年、6年半の結婚生活にピリオドを打っていたというのだ。
「結婚当初からすれ違い生活が続いていましたが、離婚の直接の原因は、麻紗美さんの不貞行為です。彼女は震災後、馬の世話を通じて知り合った妻子ある男性と深い仲になり、一時期は実家の神社を離れ、相馬市内の一軒家を借りて娘さんと3人で暮らしていたのです」(同)
そのお相手は、相馬市に隣接する地域の出身で、地元では除染作業の監督など複数の仕事に携わる30代後半の男性。外見は浅黒く、小柄ながら屈強そうなタイプだという。
「昨年の春、舟さんは地元の家庭裁判所に離婚調停を申立てます。娘の親権を麻紗美さんが放棄するなどの条件が折り合い、11月に離婚が成立したのです」(同)

◆すべてご存じだった紀子妃

「そもそも、麻紗美さんの“行状”は、地元では広く知れ渡っていました」
そう明かすのは、相馬中村神社の関係者である。
「昨年4月の例大祭の頃、麻紗美さんが舟さんでない男性と頻繁に飲み歩いているという目撃談が、氏子総代のもとに複数寄せられていました。実際に例大祭の後の酒席で、父親の宮司から『娘は舟さんと離婚して別の男性と一緒になります』と、一方的な報告があったのです。総代たちは、『まだ籍が入っているにもかかわらず、神に仕えて清めの儀式を行う禰宜がそんな不実なことでは、神社を支えていけない』と、一斉に反発。後日、連名で中村神社に『嘆願書』を提出するに至りました」
そこには、十数項目にわたり、質問や要望が綴られていたという。
震災で損壊した神社の修復費を、なぜ総代に相談せず氏子に募ったのか、何に使ったのかといった質問とともに、麻紗美さんの不行跡についても3項目にわたって宮司に質問し、けじめを求めたのです」(同)
結局、相馬野馬追の「騎馬会」からも批判の声が上がり、麻紗美さんは昨年の野馬追をはじめ、当面は表立った行事への参加を見合わせることになったという。
さらに、
「舟さんを離婚へと駆り立てたもう一つの理由は、愛娘の置かれた“境遇”でした」
と指摘するのは、ある「野馬追」の関係者である。
「娘さんは市内の保育園に通っていましたが、時折見かけると爪が伸びていたり髪の毛がボサボサだったり、また虫歯も何本かあって、明らかにお母さんの目が行き届いていない様子でした。昨夏には“異変”を感じた近隣住民の通報で、警官が自宅を訪ねたこともありました」
この時点では夫婦間の調停が続いていたものの、
「尋常ならざる状況を知った舟さんは、矢も盾もたまらず相馬に向かい、その数日後には娘さんを引き取ったのです」(同)
父と娘は現在、都内で新たな生活を営んでいるのだが、血を分けた弟こうした苦境をご覧になるにつけ、2人きりの姉弟で育った紀子妃の悲しみは、いかばかりであろうか―。
さる宮内庁関係者によれば、
「妃殿下と舟さんは、今でも変わらず定期的にコミュニケーションを取っておられます」
といい、
「実は今回の一件についても、妃殿下は舟さんの離婚調停が始まる以前からご存知の様子でした。それほど、姉弟間の絆は深いといえましょう」
弟を深く思いやる姉はまた、未来のお世継ぎを含めた3人のお子様の母親でもある。そして、悠仁さまと舟さんの一人娘は、かけがえのない従兄妹同士。かねてより幼児教育にお心を寄せられてきた紀子妃におかれては、胸が張り裂けんばかりに違いない。

◆「女性を見る目は…」

当事者である麻紗美さんに聞くと、
「11月に離婚しました」
と認めながらも、以下のよう話すのだ。
「7年前に結婚して、娘が生まれた直後から離婚を考えていました。夫は月に1度戻るかどうかで、馬の世話やお金の相談をしても全然レスポンスがない。震災後も、何の知らせもないまま突然お客様が神社を訪ねてきたり、彼が連れてきた馬も増えていくばかりで、どう対処したらいいのか何も教えてくれない。私の中では、あり得ない状態でした
周囲に指摘されている“不貞行為”については、
「調停が始まった頃から、その男性と生活を始めました。相手には妻と3人の子どもがいますが、そちらも今、離婚調停が進んでいるところです」
夫婦関係は早々に破綻しており、原因はもっぱら夫にあるという主張なのだが、対して舟さんの長年の友人は、こう疑問を呈す。
「そもそも結婚当初から、東京で一緒に暮らすという話になっていたのに、それが叶わなかったのは麻紗美さんの都合によるものでした。実際には舟君は、まめに神社と連絡を取るなど、離れて暮らしながらも最大限の努力を払っていて、麻紗美さんがその男性と同居していた借家の賃料も支払っていたくらいです。それもこれも、可愛い娘さんを思えばこその行動でした」
その愛娘との“間柄”について、麻紗美さんは、
「娘を虐待していたかのような言われようは、全く事実ではないので反論する気にもなれません。私は子供の頃から中村神社の娘として目立っていたためか、地元では悪く言う人がいるのです。男性関係の噂をいくつも立てられましたし、神社で募った修繕費やボランティアが集めた義援金を使い込んだという悪口も流されました。娘はむしろ、夫より私に懐いていました。悩んでいる私を真っ先に『ママ、離婚してもいいんじゃない』と励ましてくれたくらいです」
せいぜい4、5歳の幼児が、自らの意思でこうした台詞を口にするかどうかは別として、取り返しのつかない事態となってしまったことは疑いようがない。
大学を通じて舟さんに問い合わせると、
「私事なので、お答えのほうは差し控えさせていただきたく存じます」
と言うのみ。代わって、さきの友人はこう明かすのだ。
「離婚が成立した直後、舟君がポロッと洩らしたことがあります。と。今後の活動については『僕は、馬を見る目には自信があるけれど、女性を見る目はなかったみたいだ』と。今後の活動については『離婚と被災地支援は関係ない。相馬は娘が生まれた地だから、これからもできる限りのことをしたい』とも言っていました」
大震災の直後から、秋篠宮ご夫妻はいち早く被災地に入り、精力的に被災者を励ましてこられた。避難所で涙する女性を前に、紀子妃は、こんなお声をかけられていた。
<一歩ずつ進んでいけば、大丈夫です>
シングルファーザーとして初めての春を迎える舟さんにも、このお言葉は届くだろうか。
(記事ここまで)


冒頭でも申し上げた通り、夫婦の離婚問題は、当の夫婦にしか分からない事情があると思いますので、第三者がとやかく言うことではないと思っています。上記記事を見て、舟さんと麻紗美さんのどちらに非があるか、どちらが先に夫婦破綻の原因を作ったのか、はっきりしたことは分かりませんし、両者の言い分が食い違っていることについても判断しようがありません。

ただ、「舟さんと紀子妃は姉弟として頻繁に連絡を取り合っていた」ということは強調しておきたいかな、と思います。
というのも、東宮家アンチ連中は、雅子様と妹さんの交流を殊更バッシングしてきた過去があります。しかし紀子妃と舟さんの交流についてはダンマリだったのです。なぜこちらは叩かないのか?という疑問は当然わきます。


美智子様も「皇室入内後は実家の正田家とは交流を断っていた」と嘘をついていますが、入内後も正田家と交流を持たれている証拠写真はたくさん挙がっています。一方、雅子様と小和田家の交流写真はほとんど見つかりません。
皇室に嫁いだ後も、別に実家との交流は続けて全然かまわないと思うのです。交流を持つこと自体、誰も非難しないでしょう。
不愉快なのは、「美智子様も紀子妃も実家との交流を断って覚悟を決めていた!それなのに雅子様は相変わらず小和田家と交流を続けており覚悟が足りない!」みたいな批判を繰り広げることなのです。実際は美智子様も紀子妃も実家とのつながりを断っていないのですから、わざわざ嘘をついてまで雅子様だけを悪し様に言う必要はないわけです。

あと私は個人的に、舟さんの「馬を見る目はあるが女を見る目はなかった」という言い草にカチンときました。
でもあくまでも「個人的」な感想なので、これ以上深くは追及しないことにします。

1990年当時はもっと骨があった(?)共産党系雑誌の辛辣な意見(秋篠宮ご夫妻ご結婚について)

前回、悠仁様ご誕生の件について辛辣な記事を書いた「前衛」という共産党系雑誌をご紹介しましたが、今回は同じ共産党系の雑誌である「文化評論」(1993年3月に廃刊)の記事をご紹介したいと思います。
秋篠宮ご夫妻のご成婚におけるマスコミのくだらないフィーバーぶりを冷めた視線で論評しています。

文化評論 1990年9月号

マスコミ批評―テレビ
“紀子さま”に占領されたブラウン管のゆくえ

多摩 悠(放送評論家)

◆民放労連の「見解」

「礼宮と川嶋紀子さんの結婚式が行われる6月29日、テレビは朝から夜まで再び皇室報道一色になろうとしている」
民放労連(日本民間放送労働組合連合会)は同月20日、「『礼宮の結婚』をめぐるテレビの異常な報道体制に対する見解」を発表した。その冒頭の文章である。
「見解」はこのあと当日の放送予定と、すでに各局が“プレ特番”を放送して「世紀の結婚」の盛り上げを図っていることをあげ、以下のように述べている。やや長い引用になるが、結婚報道を目前にした放送労働者のナマの思いを伝えたい。

<このようなテレビの異常なフィーバーぶりをみていると、一昨年の秋から始まった昭和天皇の一連の病状報道と、Xデイと大喪の礼に際して全局が喪服を着た一色の天皇報道を思い出さずにはいられない。もちろん、昭和天皇の場合は「闘病」と「葬儀」であり、今回の場合は「結婚」という違いはあるが、皇室報道となるとジャーナリズムとしての見解も批判精神も忘れて一斉に「世紀のイベント」に仕立て上げてしまうテレビの姿勢に深い危惧の念を抱かずにはいられない。
しかも、今回のテレビの一連の対応は、11月に予定されている天皇の「即位の礼」と「大嘗祭」、それに、やがてむかえるであろう「皇太子の結婚」へ向けての格好のリハーサルの場であるといわれているように、新しい皇室キャンペーンのスタートとなるものである。なかでも、「即位の礼」とセットでとり行われる「大嘗祭」は、天皇が天照大神と共食することによって、「現人神」(あらひとかみ)となる宗教行事であり、これを国の公的行事とすることは、憲法で定められた政教分離の原則に反するだけでなく、このような宗教行事をテレビが一大イベントにして国民に「奉祝」を迫ることにでもなれば、天皇の神格化を演出することになる、との非難をうけても仕方あるまい。
現在の皇室報道に見え隠れするこのような流れをみるならば、特別番組を並べて全局が朝から一斉に皇族の結婚式を追うというのは異常なことであり、結果として、ことさらに皇室を美化することになるばかりでなく、一色の報道によって視聴者の番組選択の自由を奪うことになるといわざるを得ない。
長崎の本島市長銃撃事件、フェリス女学院大学弓削学長宅への発砲事件、それに名古屋や広島の在日韓国人関係施設への放火と、ことしに入ってからだけでも、昭和天皇の戦争責任を問うたり、政教分離や信教の自由の大切さを主張したことで、直接的な攻撃をうける事件があいついでいる。放送ジャーナリズムは、こうした言論状況を見据え、民主主義と言論・表現の自由を守る重い責任があることを深く認識して、6月29日の礼宮の結婚報道に際しても、過剰報道に陥ることなく、報道機関としての責任を十分に自覚し、憲法にそった節度ある番組づくりを行うよう強く求めるものである>

◆「紀子さま」誕生日の馬鹿騒ぎ

朝6時、赤坂御所から紀子さんを迎える車が目白に向かって出発した。これを皮切りに各局とも大がかりな中継を展開する。マスコミ各社が“紀子番”を張り込ませてきた目白の学習院宿舎前は報道陣でごった返していた。紀子さんは家族と別れをかわし、皇居へ向かう。上空からもヘリコプターが中継。9時すぎ、礼宮が天皇一家に見送られて皇居へ。
そして「結婚の儀」「朝見の儀」「パレード」へと“華麗なる平成絵巻”がくりひろげられていく。これらの中継を核にして各局が特別番組を編成した。TBSテレビのタイトルは「平成皇室に紀子妃殿下 今日ロイヤルデビュー」。郷ひろみ、二谷友里恵の司会で午前6時から第一部「思い出胸に旅立ち」、9時55分から第二部「厳かに結婚の儀」、司会者は礼服に着替えて登場した。午後2時55分から第三部「華やかにパレード」。三部合わせて4時間40分の特番である。
しかも、結婚報道は特別番組にとどまらない。朝と昼の生ワイド、そしてニュースの時間帯も、そのほとんどが結婚報道に費やされた。それらを加えれば、午前6時から午後6時までの12時間のうち8時間以上が結婚報道だったといえるだろう。日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日もほぼ同様の編成。
NHKもこの間、3時間15分を特別番組にあてた他、「モーニングワイド」とニュース番組を結婚報道で埋めつくした。

午後5時近く、新郎新婦はパレードを終えて赤坂御所の新居にもどった。しかし、夜に入ってもテレビはフィーバーをやめない。6時からのニュースできょう一日をふりかえり、NHKの「7時のニュース」では「ハイライト礼宮さま紀子さま結婚の儀」がメイン。番組表には「▽お二人の歩み▽新居紹介▽各地の表情▽その他ニュース・スポーツ」とあって、結婚報道しか眼中になかったことを物語っている。この日午前、死者5人重軽傷者5人を出した愛知県での花火工場爆発事故も、慶事に遠慮してか小さな扱いしか受けなかった。
日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビの3局は、7時から2時間の特別番組を放送した。この夜、テレビ朝日は通常番組で通したが、「ミュージックステーション」は結婚特集、「素敵にドキュメント」も「エビかタイか!全国特選お祝いグルメ大特集」。NHKの音楽番組「夢コレクション」も結婚と愛の歌をつらね、それぞれ“奉祝”につとめた。
民放労連の「見解」が指摘したように、6月29日のテレビは朝から夜まで、まさに皇室報道一色であった。夜遅くまで赤坂御所巽門の前にリポーターが立ちつくし、ご新居では「供膳の儀」が行われている頃とか、まもなく「三箇夜餅の儀」が行われるといった無意味な報道をくり返していた。

この日の結婚報道に投入されたスタッフは日本テレビ500人、TBSとフジが300人、テレビ朝日200人。費用はTBS、日本テレビがそれぞれ3億円といわれている。この大イベントがもたらしたものは何だったろう。
大島渚「お二人の結婚が国民に広く支持されているのは、皇室ではじめて正真正銘の恋愛結婚だったから」(日本テレビで)
草柳大蔵「家と家ではなく、人と人との結婚だった。皇室への認識が雲の上から地上へ下りてきた」(NHKで)
しかし、結婚式費用1億7700万円、新居改修費8千万円、新宮家独立費用5420万円、今年度生活費4065万円、新宮邸建設予算5億円余―。いうまでもなく、すべて国民の税金である。恋愛結婚であろうとなかろうと、こんな結婚と生活は皇族以外にはありえない。
昭和天皇の死去報道に際しては、わずかながら天皇の戦争責任や天皇制そのものについての論議も試みられたが、今回の結婚報道は完全に皇室賛美・奉祝一辺倒。紀子ちゃんスマイルはロイヤルスマイルに変わり、結婚の儀が始まるまでは“紀子さん”と呼ばれていたのが、賢所を出てきたとたんに“紀子さま”に変身した。アナウンサーのコメントはもとより、NHKの番組タイトルも“紀子さん”から“紀子さま”に見事に変わっている。
石原慎太郎「“開かれた皇室”といってメディアは追いかけるが、それには異議がある。神格化はのぞまないまでも皇室は市民とちがい、あるディグニティー(尊厳)を持ってほしい」(日本テレビで)
テレビは“開かれた皇室”を唱えはしたものの、結局のところ石原のいうディグニティー路線への演出を懸命に果たしたにすぎない。
結婚の儀は十数分。中継とはいっても賢所へ出入りする回廊のシーンを写しただけで、肝心の儀式はイラストやコンピュータグラフィックスでの説明となった。マイクも賢所内部には入れず、スズメとカラスの声を拾うのみ。朝見の儀は代表取材による“お貸し下げ”のシーン数分にすぎない。パレードもおよそ“華麗”とは程遠く、防弾ガラスを閉じたままの車列が十数分間走ったまでのことだ。
以上のハイライトを、二人の生い立ち、ゆかりの地・ゆかりの人、現天皇はじめ皇族たちの結婚のフィルムや中継などの間に何回もくりかえし、スタジオでつないで時間をもたせなければならなかった。司会者とゲストは賛美の言葉を乱発することによって間をつないだ。
夜の三局の特番のなかで異彩を放ったのはフジテレビの「紀子さまご結婚スペシャル」。その冒頭のシーンは、こうだ。
礼宮「全国の皆さん、今晩は。きょう私たちは結婚しました。皆さんの暖い祝福に心から感謝いたします」
紀子「この喜びを皆さんと一緒に分かち合えれば幸いに存じます」
礼宮「ではこれからの二時間、私たちに」
紀子「お付き合いください」
アニメキャラクターとしての登場であり、タレントの声であったにせよ、新婚ほやほやの「秋篠宮文仁親王殿下ならびに紀子妃殿下」がじきじきに視聴者に呼びかけ、そして番組がはじまったのには仰天した。
この「結婚スペシャル」の目玉が「平成のシンデレラ紀子さま物語」。二人の出会いから婚約までを描いたアニメ作品だが、愚作としか評しようがない。

そしてラストの「輝くロイヤルプリンセス」では、これまで皇太子妃候補として取沙汰された女性36人の名前をリストアップし、しかも、そのうちの二人の女性にインタビュー、3人の女性にカメラを向けて避けようとする姿をスローモーションで見せる、というひどいもの。

三局の特番のうち、アニメーションを製作したり斑尾高原にナマズのカップルの花火まで仕掛けたフジテレビが最もフィーバー、最高の製作費をつぎ込んだように思われる。しかし視聴率ではフジテレビが最低。新婚の二人に親しく呼びかけさせても功を奏さなかったのである。視聴者をバカにしてはいけない。
こうして「株主総会をきのうに繰り上げさせたきょう一日」(久米宏のコメント、同夜の「ニュースステーションで」の結婚報道は、民放労連の危惧したとおり「ジャーナリズムとしての見識も批判精神も忘れ」て突っ走った。しかし、視聴者は存外冷めた眼で「世紀のイベント」を眺めていたのではないだろうか。
これを「格好のリハーサルの場」として11月下旬には「即位の礼」「大嘗祭」、やがて「皇太子の結婚」。放送で働くすべての人びとに、ぜひ前述の「見解」を読み直し、対応の姿勢を改めることも願っておく。

(以下、日本ジャーナリスト会議主催によるJCJ賞について。そこは割愛させていただきます)


共産党系の雑誌という偏見を除いても、当時のリアルな雰囲気を感じられる割と面白い記事になっていると思います。
特に「皇族が結婚するとこれだけ税金がかかるんですよ」という箇所は興味深いです。
いくら秋篠宮ご夫妻の結婚が何となく国民に近づいたように見えても、実際は庶民と違ってこれだけの大金(しかも税金)がかけられるのだから、やはり庶民の結婚と一緒に考えるのはおかしいでしょ?という見方はなるほどと思うのです。

秋篠宮ご夫妻に関しては、私はあの「昭和帝の喪中婚約ニタニタ会見」がインパクトが強く、肝心の結婚式に関してはそこまで強烈な記憶はありません。ただ、上記記事でも触れている「秋篠宮ご夫妻アニメ」だけは確かに強く覚えており、冒頭でアニメの二人が呼びかけているシーンもうっすら覚えていました(笑)。しかしその後の内容はほとんど覚えていません(もしかしたら途中で別のチャンネルに変えたかもしれませんが、それも定かでありません)。
あと覚えているのは、紀子妃が秋篠宮の額だか前髪に手をやった、あの国民一同がドン引きした場面くらいです(あの場面で「この二人は清らかな関係ではなかった」ということが伝わってしまった)。
上記記事でも指摘されている通り、アニメまで作ったフジテレビが視聴率的に惨敗したらしいですが。

今になって冷静に考えてみても、秋篠宮ご夫妻の婚約と結婚は、ただの次男坊夫婦の結婚の割にはあまりにもマスコミの浮かれぶりが度を過ぎていたと言えると思います。平成という新しい時代になって初めての慶事なので一部の国民は浮かれたのかもしれませんが、このように秋篠宮ご夫妻は昔から「ただの一宮家の割には異例の厚待遇」をされてきた方々だと感じます。ほかの宮家の皇族方は慶事でもここまでの扱いは一切されていません。
この辺りはやはり、川嶋紀子さんはほかのお妃たちとは悪い意味で何か違うな…と思わずにはいられません。
結婚前からマスコミと懇意にしていた時点でおかしい人でしたが、マスコミと仲良くすればこういう浮かれた報道をしてもらえるという証左にもなるでしょうか?秋篠宮家に関しては今でもその傾向が続いていますしね。

あるいは、川嶋紀子さんという、ボロアパート(学習院の教員専用の格安住宅)出身のド庶民の女子院生が皇室入りした―この事実を好意的に見ていた国民は、ある意味紀子さんに「下剋上」の精神を見て溜飲を下げていたのかもしれません。「血筋や身分を鼻にかけて気どっている皇族連中の中に完全な庶民の川嶋紀子さんが殴り込みをかけ、見事紀子さんは“筆頭宮家当主の妻”という地位を得てほかの皇族たちの上位に立った」というように捉えた国民がいても別に不思議ではないし、民間出身の美智子様もある意味そういう目で見られていたのではないでしょうか。そして同時に、相手女性の身分を気にしなかった礼宮に対して好感を持った国民もいたかもしれません。

しかし、そうやって好意的な目で見ていた国民は少数派で、実際は「まあ天皇の次男だしどうでもいいし、どうでもいい方にはあの程度のお嫁さんでも別にいいんじゃないか?」というくらいにしか思われていなかったというのが本当のところではないかと思います。元々華のないご夫妻ですし、国民が憧れる要素もほとんどないですから。
上記記事も「視聴者は存外冷めた眼で「世紀のイベント」を眺めていたのではないだろうか」と指摘しています。

結局、ご成婚の時も、第三子=悠仁様誕生の時も、秋篠宮家関連で大騒ぎしていたのはマスコミだけであって、大半の国民はマスコミの浮かれっぷりについていけず、白けていたというのが実情なのでしょう。
「どうして魅力のない、たかが天皇の次男夫婦にここまで放送時間を割くのか?」という違和感は、国民なら誰でも多かれ少なかれ持っているのではないかと感じます。


昔の共産党はこういう問題をきちんと指摘できていたのに、ここ数年の共産党は、天皇制反対はおろか、今上陛下に対しても美智子様に対しても一切批判したり疑問を呈したりしなくなりました。共産党的には「平和を願う天皇皇后」だから文句が言えないということなのでしょうか。何だかモヤモヤしてしまいます。

それにしても…「人間の身分に上下はない!」という水平思想を娘にも植え付け、おまけにマルキスト?と指摘された親戚もいた川嶋家から皇室に嫁ぐ人間が出てしまい、こうして共産党系雑誌に皮肉を書かれてしまうのは興味深い現象だと思います。水平思想・マルキストという点から川嶋家の思想はどちらかというと共産主義と親和性が高いと言えるのに、結局は「身分制の象徴」とも言える皇室に娘を嫁がせ、国民を上から見下ろす地位に上り詰めさせてしまったのですから、何とも皮肉なものですね。
川嶋家は「皇族なんてどんなもんじゃい!皇族だって我々庶民と何も変わらんだろ!」という勢いで娘を礼宮の元に嫁がせたのかもしれませんが、国民の血税で生活し、国民から頭を下げられ、「紀子サマ」と呼ばれる生活を手に入れて、今ではパワハラし放題で誰も逆らえなくさせて、それでも「皇族は庶民と何も変わらない!」という理屈はもう通用しませんよね。
「皇族も庶民も変わらない!」と言うなら、まずは支給されている多額の血税を放棄することから始めてほしいものです。

なお、秋篠宮ご夫妻のご結婚特番で、皇太子妃候補に挙がっている女性を追い回した映像を出した局もあったようですが、この中にもしかしたら小和田雅子さんもいらしたかもしれません。雅子様は当時からしつこいマスコミに困惑していらっしゃり、マスコミと懇意になって礼宮との交際を自ら垂れ込んでいた紀子妃とは明らかに異なりました。
また、上記記事の中の「フェリス女学院大学弓削学長宅への発砲事件」については、またページを改めて内容をご紹介したいと思います。
sidetitleプロフィールsidetitle

キリアキ管理人

Author:キリアキ管理人
今上陛下の生前退位に伴い、国民の理解や同意が得られないまま「秋篠宮様を“皇嗣”(継承順位1位の皇族)として皇太子に準じる扱いにし、支給される皇族費もこれまでの3倍に増やす」ということも一緒に勝手に決められてしまいました。
この問題に危機感を持ち「あらゆる方面から見ても秋篠宮様は皇嗣にふさわしくない方である」ということを、過去の雑誌記事の引用(原則全文)により検証することを目的としたブログです。2020年に予定されている「秋篠宮立皇嗣の礼」に一石を投じたいです。

sidetitle最新記事sidetitle
sidetitle最新コメントsidetitle
sidetitle月別アーカイブsidetitle
sidetitleカテゴリsidetitle
sidetitle検索フォームsidetitle
sidetitleRSSリンクの表示sidetitle
sidetitleリンクsidetitle
sidetitleブロとも申請フォームsidetitle

この人とブロともになる

sidetitleQRコードsidetitle
QR