礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その3~川嶋家自らが朝日に交際情報を流していた!

「礼宮様と紀子さんがなぜ昭和帝の喪中にも関わらず急いで婚約発表することになったのか」という問題を検証するにあたっては、まず紀子さん(川嶋家)自身が、礼宮様との交際情報を自らマスコミに流していたという事実を直視する必要があります。
以下、朝日の記者が「川嶋紀子さんと自分たちとのズブズブの関係」を暴露したに等しい記事をご紹介します。


川嶋家を見つめて 内藤修平記者 斎藤智子記者
朝日新聞 1989.09.12

初めて川嶋紀子さんに会ったのは、昭和61年5月の雨の日だった。待ち合わせた東京・目白の学習院大学近くの喫茶店に時間通りに現れた彼女は、横の窓からちらっと中をのぞいてから、入って来た。
>まだ少女の面影の残る、学習院大学の2年生だった。紺のヘアピンを飾っているだけで、化粧はせず、服装も清そだった。ふっくらした顔立ちと、言葉を選びながらのゆっくりした話しぶりが、テレビ画面で見たことのある美智子さま(皇后)の婚約発表時の顔と二重写しになった。そのことを伝えると「ありがとうございます」と紀子さんが答えたように記憶している。
英国のダイアナ妃が来日した直後で、「ああいった方にあこがれますか」と水をむけると、しばらく考えてから「すてきな方だと思います」とうつむいた。いま考えると、あるいは、その時、将来の自分の姿を思い描いていたのかもしれない。

父親の辰彦さんとは、それより前の2月に会っていた。60年暮れ、紀子さんが礼宮さまと三浦海岸でデートをされたという話を聞き、周辺の取材を続けた末のことだった。「私がお話しして予断を与えてはいけないので、本人から直接聞くのが一番いいと思います」。辰彦さんのこの言葉が3カ月後に実った。
>川嶋さん家族との私たちの交際は、こうして始まった。


礼宮さまは学生時代、「兄より先に結婚したい」という強い希望をごく親しい人に漏らしていた。浩宮妃が決定したあとに「さぁ、次は」とマスコミの標的にされたらかなわない、というのも1つの理由だったらしい。だから紀子さんのことも、正式に婚約がととのうまでは、そっとしておいてあげたい、というのが、取材に当たった私たちの考えだった。
ところが、お2人は、学習院大学の演劇サークルの公演を見に豊島公会堂にそろって出かけ、一緒の車で帰る。紀子さんは頻繁に東宮御所に出向き、テニスをしたり、車を運転したり。むしろ2人の仲をオープンにして既成事実をつくろうとしているのではないか、と思えるほどだった。

>それまでは「サークルの先輩と後輩の関係です」と笑いながらはぐらかしてきた紀子さんが、初めて結婚を意識した話をしてくれたのは、昨年の9月だった。昭和天皇のご病状が悪化した1週間ほど前である。
>「自分の努力で克服できるものと、そうでないものがあります。宝くじに当たらないとダメだったり、タイムマシンに乗って過去にさかのぼって改めたりすることの出来ない問題もあります」。そして「立場も違いますし、育った環境も違った2人が一緒に生活していくことは大変なことだと思います」と続けた。心の中で揺れ動きながら結婚を真剣に考えていることが、ひしひしと伝わってきた。
>「結婚されても、これまで通り会っていただけますか」と聞いてみたら、「それは、難しいと思います。ひとり(の記者)にお会いしたら、ほかの方にも同じようにお会いしなければならなくなります」という答えが返ってきた。
>既に2人の間では結婚の約束が出来ていたのではないか。そのとき、こんな確信を持った。
>「ご結婚の時期はいつなのですか」と、追い打ちをかけると、「ハレーすい星がくるころかしら」と笑顔ではぐらかす余裕を取り戻していた。

>2人の「価値観」に紀子さんが初めて触れたのは、今年に入ってからである。
>「社会的肩書とか家柄で人を判断するのではなく、ひとりの人間として見ようとする姿勢がある方です」。そして「私自身、国籍や肩書で人を判断しないように、と育てられてきましたし……。もっとも私の場合は家柄とかがないせいですが」とほほ笑んだ。
>「礼宮さまが英国でデート」と一部の週刊誌が報じた今年4月、インドネシアを旅行中の紀子さんから英文のはがきが届いた。帰国後、電話ではがきの礼を述べると、こう話した。
>「旅先で、東京の報道を知り、心配していると思って。私は英国には行っておりません」

>婚約が内定した後、久しぶりに、お祝いを言うために自宅を訪れた。「おめでとうございます」と言うと
>「ありがとうございます。でも、まだ正式に決まったわけではございませんので」と、晴れやかな笑顔を見せた。
>何がきっかけで親しくなったのか、と聞いたら「本当に、自然な形で」と、はっきりとした答えだった。
>「お付き合いする中で、折に触れ、(礼宮さまの)行動を見、意見を伺うとき、『そうか、こういう考え方もあるのだわ。私はしたことがないけれども、それもいいなぁ、私もしてみようかしら』というようなことが、何回か重なったのです……」


(記事終わり)


「川嶋紀子さんと朝日記者が始めて会ったのは昭和61年5月」とのことですが、驚くべきことに昭和61年2月に先に朝日記者と会っていたのは父親の川嶋辰彦氏であったとのこと。まだ昭和帝がご健在であった頃から、川嶋親子と朝日は関わりを持っていたのです。

普通の親であれば「その件は私どもには分かりませんし何より礼宮様にも娘にも迷惑がかかるので止めてください」という感じで、マスコミの取材から逃げたくなるものだと思います。しかし辰彦氏は自ら「娘の紀子に直接会って話を聞いてみたらどうだ」と、平気でマスコミと娘が近づくことを容認することを言っているのです。父親としてこれはどうなのでしょう。
そして紀子さん自身も、朝日記者と会うことを断るどころかちゃっかり取材を受けてベラベラ喋っているというしたたかさ。
朝日記者からも「二人の仲を敢えてオープンにして既成事実を作ろうとしているように見える」と言われる始末。
小和田雅子さんがマスコミから逃れ、時には毅然とした態度でマスコミに立ち向かったことを考えると、川嶋親子の態度は解せないことだらけです。

もし当時にネットが発達していたら、川嶋一家のこのような「マスコミを使った外堀埋め行為」は大バッシングを受けていたのではないでしょうか。芸能界でもこのような「外堀埋め」「既成事実作り」が横行することがありますが、やはり良い印象は持たれていませんね。
そして紀子さんは今の時代だったら容赦なく「皇族狙いのプロ彼女、しかも親子ぐるみで!」と批判を浴びていたでしょう。
現在ではこういう事実がほとんど語られなくなり「無かったこと」にされつつあるのは、非常に危険なことだと思います。

そして当時はただの民間の女子大生にすぎなかった紀子さんが朝日などという大手マスコミと懇意になれたのも、父親の辰彦氏の「入れ知恵」があったからですね。「辰彦氏の方が娘より先に朝日とコンタクトをとっていた」という事実からもわかります。

そして川嶋家と朝日との関係は、昭和帝のご体調が悪化し、崩御された後もずっと継続していたことが伺えますね。
礼宮様が婚約会見で「川嶋家への問い合わせが多くなり…」と言っていたのも、辰彦氏・紀子さん親子が結託してマスコミにわざと礼宮様との情報を流しマスコミが騒ぐように仕向けたからでしょう。そして礼宮様に責任を感じさせるように仕向けたという見方ができます。芸能人もビックリの既成事実作りですね。

川嶋辰彦氏については今ではほとんどマスコミの報道がありませんが、この人物は相当危険だと思います。
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