陛下・皇太子殿下・秋篠宮 三者会談の目的は何か? 4~真相はいかに?官邸・宮内庁を巻き込んだ新潮記事の重大性①国会図書館から抹消された記事

拙ブログではこれまでいくつかの雑誌の「三者会談」の内容について触れた記事をご紹介させていただきましたが、三者会談において最も物議を醸したと言える重大性をはらんだのは、週刊新潮2013年6月20日号でしょう。
後ほど触れますが、上記新潮記事は、官邸や宮内庁をも巻き込んで大きく問題視されました。
またそれだけでなく、当該記事を探す上で驚くべき事実にぶち当たることにもなりました。

週刊新潮2013年6月20日号は、
「特集 「雅子妃」不適格で「悠仁親王」即位への道」

という大見出しが付いた上で、さらに4つの見出しに分かれて記事が書かれています。

■ついに「雅子妃に皇后は無理」の断を下した美智子さまの憂慮
■「皇太子即位の後の退位」で皇室典範改正を打診した宮内庁
■「秋篠宮は即位すら辞退」が頂上会談で了解された深い事情
■「悠仁さま」電車通学を提案した「秋篠宮殿下」の未来図


これから順に4つの見出しの内容を追っていきたいと思いますが、4つの中の2番目に当たる
■「皇太子即位の後の退位」で皇室典範改正を打診した宮内庁
の見出しの記事が、どういうわけか国会図書館サイトで検索をかけてもヒットしなかったのです。
さらに言えば4番目の
■「悠仁さま」電車通学を提案した「秋篠宮殿下」の未来図
の記事も検索でヒットしなかったのですが、こちらは3番目の記事を取り寄せれば同時に読むことができたので(ページが一部重なっているため)、まだ許容できる状態でありました。
しかし、2番目の皇太子殿下に関する記事だけが、国会図書館でも「無かったこと」にされてしまっており、もしかしたら一種の検閲が行われ、記事自体抹消扱いとされたのか?という疑惑が沸き上がっています。

ちなみに私は上記新潮記事を国会図書館から取り寄せる際、まず3番目の秋篠宮様に関する記事を請求し、先にこちらが手元に届きました。すると同時に4番目の悠仁様関連の記事もページの関係から一緒に読める状態となっていました。
しかし、3番目の秋篠宮様関連の記事の前にも文章が書かれていることに気付き、この記事が4つの見出しでシリーズとなっていることに後で気が付いたため、ほかの見出しの記事も取り寄せる必要があると考え、後から「前の文章」の請求を国会図書館にかけました。
ところが、手元に届いた記事(1番目の美智子様関連のもの)はきちんと完結しており、どう見ても先に入手した秋篠宮様関連記事の前に書かれた文章とつながらない。さらに言えば1番目の見出しの美智子様関連記事の隣のページが、ご丁寧に空白になっている。
不審に思い調べてみると、この空白になっている部分に、本来なら掲載されていたはずの、2番目の見出しの皇太子様関連記事が存在していたのだということを知りました。

文では分かりづらいと思いますので、どういう状態で手元に届いたか、その画像をアップさせていただきます。

20180509_232804.jpg

先に手元に届いたのは下の2枚の記事コピーで、後から届いたものが上2枚の記事コピーです。
ご覧の通り、
■「皇太子即位の後の退位」で皇室典範改正を打診した宮内庁
の見出し記事の前半部分が白紙にされ、「存在しないもの」扱いになっていることがお分かりいただけるかと思います。


私はこの事実に驚き、なぜこの記事だけ国会図書館の検索にもかからないようにされ、まるで最初から存在しないようにされたのかを考えてしまいました。
幸い、「東宮ご一家を応援したい」という志を同じくする方(S様)から当時の週刊新潮の現物記事を頂き、何とか全文を揃えることができましたが(S様、その節は本当にありがとうございました!)、広く国民の閲覧の用に供するはずの国会図書館から、特定の記事だけ「抹消」されたことの不気味さは消えておりません。
そういえば以前も、川嶋家と池口恵観阿闍梨との関係について触れた文春記事が、国会図書館で検索しても見つからないことがありました。一体、どういう基準で、どういう記事を見られなくしているのでしょうか。


「この記事はなぜ闇に葬られたか」

その答えは、後ほどこちらのブログで記事を取り上げる際に、皆様と一緒に考えていけたらと思っております。

陛下・皇太子殿下・秋篠宮 三者会談の目的は何か? 3~やはりツッコミ所満載のテーミス記事

今上陛下・皇太子殿下・秋篠宮様の三者会談につき、前回の新潮記事に続いて、テーミスも噴飯ものの記事を出しています。
やはり東宮ご夫妻を無理やり悪し様に言いたいだけの内容となっています。

テーミス 2013年4月号

皇太子殿下の譲位論まで出る中
天皇陛下&皇太子殿下・秋篠宮殿下 会談で何が話されたか

秋篠宮さまが取り持つ形での会談へ憶測も飛ぶ中で皇太子ご夫妻はオランダ訪問か?!


◆「臨時代行」を理解していない

「年月の経つのは早いもので、結婚してからもう20年経つのかと思うと、とても感慨深いものがあります。雅子にはこの間、苦労も多かったと思いますが、様々なことで私を助けてくれ、力になってもらっていること、また、母親として様々な気配りをしながら、愛子の成長を見守り、支えてくれていることに心から感謝しています。今後とも夫婦で協力しながら、また、愛子も共に、公私にわたり活動していくことができればと思います」
2月23日、53歳の誕生日を迎えられた皇太子さまは、今年6月に結婚20年になることでご感想を述べられた。だが、雅子さまが療養に入られて10年ともなる。雅子さまの公務復帰への見通しを記者団から聞かれた皇太子さまは、こう語った。
「雅子は確かに快方に向かっておりますが、さらに療養が必要です。雅子には、健康の回復を最優先にし、お医者様からご助言いただいているように、体調を整えながら、焦らずに少しずつ活動の幅を広げていってほしいと思います」
東宮御所で行われた記者会見では、5つの質問に皇太子さまが答える形になったが、需要なのはその後に出た「関連質問」である。
宮内庁担当記者がいう。
「皇太子さまは陛下とのコミュニケーションに関して、ご自分と秋篠宮さまを含め、3人で次世代皇室のあり方について話し合いの機会を設けられていることを明かされた。このことは宮内庁関係者の間では噂されていたが、皇太子さま自らが認めたのは、サプライズだった」
ただし、宮内庁関係者たちの間では、このことを皇太子さまの“前向きなスタンス”として捉える向きは少ない。というのも、もうひとつ雅子さまの治療について「関連質問」がなされたが、皇太子さまは「東宮医師団の治療を私も非常に深く多としておりますので、いまのところ、セカンドオピニオンという考え方はとくにございません」と述べられたからである。
皇太子さまを知る関係者がいう。
「天皇陛下の公務に対する思いや象徴天皇に関するお考えを、皇太子さまは十分、受け止めていると思う。しかし、『臨時代行』を託されているという真の意味を完全には理解されていないのではないか。本来なら、“帝王教育”は陛下と皇太子さまのお2人の間でなされるべきこと。それを秋篠宮さまが取り持つ形で話し合いがなされること自体、きわめて異常な事態といってよい」

◆オリンピックの「接見」もなし

ここへ来て皇太子さまの「退位論」が飛び交う背景も、この流れと無関係ではない。発端は宗教学者の山折哲雄氏が書いた「皇太子殿下、ご退位なさいませ」という論文だという指摘もあるが、そうではない。
皇室関係者が指摘する。
「山折氏は皇太子さまが“公”よりも“私”を重視されている現実を踏まえ、『象徴天皇制』に異変が生じていると指摘しているが、まさにこうした思いは皇室関係者や宮内庁関係者から洩れていた声でもあった。つまり、皇太子さまに“将来の天皇”としてのご自覚があるかどうかが問われる大問題だ。最近の元宮内庁長官や元侍従長の発言を見ればわかるように、陛下はあくまでも国民の目線に立って寄り添ったり、祈ったりすることを実践されている。次世代天皇もそれを受け継ぐかどうか。それは陛下の皇太子さまに対する間接的なメッセージと見ていい」
一方で、まず家族を大事にしながらも、公務にも携わっていく選択もないわけではない。しかし、そのとき、国民が変わらず皇室に対する“尊崇の念”を持ち続けられるかどうかわからない。
本誌が前号で指摘した通り、皇太子さまが秋篠宮さまに“譲位”して、将来は秋篠宮さまが天皇陛下になる可能性も出てきたといえる。
3月4日、皇太子さまは東宮御所でIOC(国際オリンピック委員会)評価委員会メンバーと接見された。だが、東宮御所にお住いの雅子さまは、この接見の席にお出ましにならなかった。
「オリンピックは国を挙げて承知するもの。皇太子さまが接見されるとなれば、本来、雅子さまもご一緒に出られてもいい場面だった。しかし、離任して帰国する外国の大使にも滅多にお会いにならない雅子さまがIOC委員会の接見には出るというのは“国際親善”をえり好みしているような印象になってしまい、悩ましい。ご体調もいまひとつすぐれなかったようです」(宮内庁関係者)
翌5日、皇太子さまはニューヨーク国連本部で開かれる「水と災害に関する特別会合」で基調講演を行うため、おひとりで米国へ出発された。

◆皇室で初の海外静養した場所

皇室関係者が証言する。
雅子さまは2月27日、東宮御所で国連大学学長夫妻を約1時間、お茶を飲みながらもてなされている。このときは皇太子さまはインフルエンザで公務を休まれていた。どうも雅子さまの国際関係のご活動は『国連』と『ハーバード大』がキーワードになっている。2月の訪問には皇太子さまから1時間以上遅れて国連大学に出掛けられ、環境に関する国際委会議に出席した。また、昨年10月には青山学院に出向かれて、ハーバード大時代の恩師で国際政治学者のアダム・ロバーツ卿の講演会を熱心に聴講された。不思議なのはどちらのお出かけも“私的なお出掛け”という扱いだったことだ
ここへ来てオランダの新国王即位を伴う式典に「皇太子ご夫妻が出席されるのではないか」との情報が飛び交っている。オランダといえば、06年8月、雅子さまはベアトリクス女王の招待を受けて、皇太子さま、愛子さまと共に皇室にとって前代未聞の「海外でのご静養」をされた場所である。
このとき、オランダに居を移していた雅子さまの両親、小和田恒・優美子夫妻やスイスにいた妹の渋谷節子さんとも再会された。森林をドライブするなど、リラックスした2週間を過ごされている。
東宮関係者が語る。
「雅子さまが海外を訪問された場合の発言が関係者の間で心配されている。02年12月、ニュージーランド・オーストラリアご訪問の際、雅子さまは『育ってきた過程、結婚前の生活でも外国に行くことが頻繁だったが、6年間外国訪問ができず、その状況になかなか対応できなかった』とホンネを洩らされた。皇太子さまも04年、欧州ご訪問の際、あの“人格否定発言”をされている。オランダ訪問を関係者が心配するのは、そういうことも背景にある」
皇太子ご夫妻の間には微妙なすきま風が吹いているとの東宮職関係者の声もあり、何が起こるかわからない状況になってきた。
(終わり)


…本当にどっからどう突っ込めばいいやら…。
東宮ご夫妻を悪い印象で書きたいがために、矛盾にも論理破綻にも気付かず違和感しかない記事を書く雑誌記者ら。
一体読者に何を感じてほしいのか?
上記テーミス記事は大雑把に言うと新潮と内容は似ていますが、下手するとそれ以上にメチャクチャな内容です。

まず、浩宮様時代から国事行為の臨時代行をしてきた皇太子殿下が「臨時代行の意味をわかってない」はずがありません!
(昭和帝がご病気の時、皇太子ご夫妻だった当時の両陛下は海外行きを優先してしまい、代わりに日本に残られた浩宮様が昭和帝の代行をなさったということです。つまり昭和の皇太子ご夫妻は、憲法に規定されている国事行為よりも、国事行為でないただの公的活動である海外行きを選んだということです)
その一方で秋篠宮様はこれまで一度も天皇の臨時代行はしたことがありません。
(今上陛下の心臓手術の時に秋篠宮様が行ったことはあくまでも「皇太子殿下の代理行為」であって、「天皇陛下の代行」ではありません。これを「陛下の代行」と勘違いしている人が少なくないようですが。)
浩宮様時代から昭和帝の国事行為代行をなさってきた皇太子殿下に「天皇になる資格がない」と言う前に、これまで一度も国事行為代行をしたことがない秋篠宮様に「皇嗣になる資格がない」という声をもっと上げるべきでしょう。

次に、雅子様に対し「〇〇の場に出てこない!」と言いながら、いざ表の場に出てくると「えり好みしていると言われるのでは」というイチャモン、一体雅子様はどうすればよいというのでしょうか。
皇太子殿下がインフルエンザで公務に出られない時は、雅子様がお一人できちんと対応しています。
また、国連やハーバードに関するお出ましを私的活動扱いにしているのは、皇太子殿下や雅子様が公私の区別をしっかり付けられている証左にほかなりません。何でもかんでも「公務」扱いにして際限なく国の予算(宮廷費)が使われることになることを避けていらっしゃるのです(私的活動の場合、私費である内廷費=毎年支給額が決まっているお手元金から費用をやり繰りすることになります)。
同様に、皇太子殿下の水の研究も私的活動としてけじめをつけられているため、皇太子殿下は毎年お一人で海外に行かれています。雅子様が同伴されないことにはきちんとした理由があります。
こういう点をまったく考慮せずに「夫婦同伴じゃない!」だの「何で私的扱いなのか?」だの、言いがかりもいい加減にしろ!と言いたいです。記事を書く前にちょっと調べれば済む話ではありませんか。

また、相手国の女王の招待があった静養について「前代未聞」という言い方は相手国にも失礼すぎます。相手国のオランダが、それだけ雅子様に同情していたということの証にほかなりません。
このオランダ静養についても、海外報道では「たとえプリンセスマサコがオランダでつかの間の息抜きをしたとしても、日本に帰ればまた元の(籠の鳥にされいじめられる)生活が待っている。こんなに短い静養では本当に良くなるとは思えない。大丈夫なのか」と同情するような内容のものがありました。
ちなみに、昭和の皇太子ご夫妻(現両陛下)が軽井沢の民間ホテルで一カ月以上ものんびり静養していました。それはそれは優雅な静養でありました。この昭和の東宮ご夫妻の優雅な長期静養についてはスルーするくせに、東宮ご夫妻の2週間程度の海外静養ばかりがやり玉に挙げられ叩かれるのはフェアではないですよね?
そもそも、元外交官として皇室外交を期待されていた雅子様を、なぜ6年も海外に行かせなかったのか、なぜ皇太子殿下が「人格否定発言」をせざるをえなかったのか、そういう根本的な肝心な疑問からは目をそらして「東宮ご夫妻に非がある」ありきの記事を書くこと自体がフェアではないのです。しかしこういう記事が、もう10年以上も垂れ流されてきたのです。

記事の〆である「東宮ご夫妻の間にすきま風」という唐突な一文に至ってはもはや整合性がないし、何が言いたいのか分かりません。皇太子殿下がインフルエンザで休養している時は雅子様がお一人できちんと対応されていたという「連携プレー」にまで触れていながら、何がすきま風なのか意味不明すぎて頭が痛くなります。

そもそも「皇室関係者」「宮内庁関係者」「東宮職関係者」とは誰なんですかね。
こういう記事を書くときは匿名でなくてきちんと実名を出しなさいよ!卑怯者!

次回以降は、新潮2013年6月20号の記事を、何度かにわたってご紹介したいと思います。
この新潮記事こそ、三者会談の怪しさ・危うさと、皇太子殿下のお立場をないがしろにする決定的な証拠になりうることが書かれています。この記事を探すにあたり、驚くような事実にも遭遇してしまいました(それも次回以降お知らせしたいと思います)。

陛下・皇太子殿下・秋篠宮 三者会談の目的は何か? 2~「皇太子殿下退位論」と三者会談の関係性

今回ご紹介する新潮記事は、読んでいてあまりにも腹立たしくて血圧が上がりそうになりました。
内容的に不快な事柄が多いですが、「皇太子殿下に対する異常なまでの不敬報道」と「秋篠宮様アゲ」、そして「今上陛下の生前退位に隠された真意」の証拠を残す意味でも避けて通れないものと言えます。

週刊新潮 2013年3月7日号

「皇太子退位論」の折も折 53歳「皇太子さま」が明かした
帝王教育の現場に「秋篠宮殿下」の同席


2月23日に53歳になられた皇太子さま。折しも、宗教学者の山折哲雄氏による論文「皇太子殿下、ご退位なさいませ」(『新潮45』3月号)が、反響を呼んでいる。現在、天皇陛下から「帝王教育」を受けられている殿下だが、そこには秋篠宮さまも同席されているというのだ。

山折氏は、『新潮45』誌上で、次のように述べている。
<皇太子さまと雅子さまは愛子さまとともに、いわば第二の人生を選ばれてもいい時期に際会しているのではないだろうか。
皇太子さまによる「退位宣言」である>

さらには、秋篠宮さまへの「譲位」にも言及しているのだ。雅子妃のみならず、時に皇太子さまのお振る舞いについても「公より私を優先なさっているのでは」といった批判は繰り返されてきたが、当の山折氏は、
「この論文は、象徴家族と近代家族との狭間で、非常につらい立場にいらっしゃる殿下に、より人間的な生き方もあるのですということをお伝え申し上げたかったのです」
そうした提言と軌を一にするかのように、先ごろ行われたお誕生日会見では、現在の皇室で着々と進んでいる思いがけない「事態」について、皇太子さま自ら明かされている。宮内庁担当記者が振り返る。
「お誕生日に先立ち、21日の17日から東宮御所で行われた会見では、事前に記者会からお渡ししていた5つの質問に皇太子さまがお答えになりました」
続いて、その場で受け付ける「関連質問」が3つ出され、皇太子さまはその都度“アドリブ”の形でご回答なさったのだが、
「その中に、現在の状況を端的に物語っている、きわめて示唆に富んだお言葉があったのです」(同)
というのだ。
「それは、陛下とのコミュニケーションについて尋ねられた時でした。殿下は『私と秋篠宮が折に触れ、陛下のご意見を伺い、また意見交換をするなど、大変有意義な一時をすごしています』と、陛下による事実上の“帝王教育”の実態に言及されたのです」(同)

図らずも、皇太子さま直々に明かされた「三者会談」の存在―。
さる皇室ジャーナリストが言う。
「現在は、お三方のご予定をすり合わせた上で、宮内庁の風岡典之長官も同席し、ほぼ月1回のペースで会合が開かれています
そもそもは、昨年6月に退官した羽毛田信吾長官の、いわば「置き土産」だったという。
「陛下はかねてより、秋篠宮さまに比べて皇太子さまとのコミュニケーションが少ない点を憂慮されていました。それでも、療養中の雅子さまを伴って両陛下にお会いになるのは容易ではなく、皇太子さま自身もまた、お一人で参内することがかえって妃殿下のストレスになるのでは、と案じておられました」
結果、御所とは“距離”が生じてしまった。が、一昨年の夏、
「折から陵墓の問題や女性宮家構想が浮上していたこともあり、陛下の強いご意向を受けた羽毛田さんが、深謀遠慮をめぐらして最初の会合をセッティングしたのが始まりでした。庁内の一部ではこうした経緯は知られていましたが、今回は、他ならぬ当事者である皇太子さま自ら公にされたことが、極めて異例だといえます」
とはいえ、巷は「山折論文」で持ち切り。弟宮の同席をお認めになった皇太子さま、さらには、陛下の思し召しや如何に…。

◆「ペア」が可能な秋篠宮さま

先の記者が続ける。
「会見で皇太子さまはさらに、こうした会合での話題について『象徴天皇のあり方について、陛下の思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださっています』とも述べられました」
そこからは、次世代の皇室のありようを見据えた陛下の強いご意志が窺えるのだが、この場に秋篠宮さまが同席なさることには、さまざまな意味合いが含まれていると指摘するのは、ある宮内庁関係者である。
「秋篠宮殿下は、あくまで次々代の天皇である悠仁親王の『ご名代』という位置づけで同席なさっていますが、実はもうひとつ重要な側面があるのです」
それは取りも直さず、陛下の“後任”だというのだ。
陛下はこれまで、皇后陛下とともにご夫妻でご公務にあたる新たなスタイルを築き上げてきました。昨年の福島での除染作業のご視察など、どんなに厳しい日程でも、必ずお揃いで臨まれていたのです。こうした伝統を、妃殿下が同行できない現状では皇太子殿下に引き継ぐのはやはり難しい。また、海外の賓客の接遇などでも、カウンターパートとなる妃の同席が望まれ、ペアでご公務ができる秋篠宮殿下のお立場がますます重要になっているのです
一方、さながら“ブレーキ”と化している雅子妃のお過ごしようについては、
<結婚してから20年、雅子はこの間、苦労も多かったと思いますが、様々なことで私を助けてくれ、また母親としても愛子を支えてくれていることに心から感謝します>
皇太子さまはそのように言及され、10年にわたる療養生活を振り返りながら、
<体調の波がある中で公私にわたってできる限りの活動をしてきました。引き続き、長い目で温かく見守っていただければ>と呼びかけられたのだが、ここでもまた、刮目すべきやり取りがあった。
「会見の終了間際、ベテラン記者から雅子さまの治療について関連質問がなされたのです。『療養が10年目となった今、東宮職医師団以外の医師のセカンドオピニオンを用いるお考えはありませんか』という、核心を衝いたものでした」(前出記者)
これに対し皇太子さまは、
<東宮医師団の治療を深く多としておりますので、今のところ考えておりません>
落ち着き払って、こう口にされたのであった。


◆陛下のモットーとは相容れず

「適応障害」と診断された雅子妃の主治医は、大野裕医師。これまで一貫して具体的なご病状の説明を避けており、治療の成果が見られないとの批判は依然として渦巻いている。
「今回、殿下がはっきり仰ったことで大野先生はわが意を得たり、でしょうけれど、周囲は今後、提案が何もできなくなりますね」
そう話すのは、皇室評論家の渡辺みどり・文化学園大学客員教授である。
「何より雅子さまが『このままでいい』とお望みなのでしょうし、20年前に『一生お守りします』と宣言された殿下ですから、そのお考えを尊重されるわけです。ただ、将来雅子さまが皇后になられる時、依然快復されていなかったらどうなさるのか、という問題は生じてきます」
先の宮内庁関係者も、
「プライバシーの問題はあるにせよ、お体のどの部位がどんな状況下でお痛みになるのか、せめて身体症状をつまびらかにしてくれればよいのですが、大野先生は妃殿下のご説明だけに耳を傾け、ご病状を“秘匿”してしまい、一切の説明を拒んでしまったのです」
としながら、以下の懸念を示すのだ。
「最大の問題は、こうした姿勢が『あらゆる場面において国民をミスリードしない』という、陛下が最も大切になさっているモットーと、全く相容れない点なのです」
陛下ご自身が、そうしたご意思を明確に示されたケースがある。
03年1月に前立腺がんの全摘手術を執刀した、北村唯一・東大名誉教授が言う。
「陛下のがんは最初初期段階ではなく、少しステージが進んだ状態でした。当初、術後の会見で医師や侍従らは、進行度合いの公表を控えようとしていましたが、陛下は自ら『包み隠さず話してほしい』と仰って、会見の発表原稿に急きょ項目を増やされたのです」
国民に対しては嘘偽りなくすべてを明かすという、揺るぎないお考えの一端が如実に窺えたというのだ。
患者からの“お墨付き”を得た格好の大野医師は、
「そう言われましても、ご夫妻のお考えですから、私があれこれ申し上げることではありません」
と言うのみ。が、精神科医で京大非常勤講師の片田珠美氏は、こう疑問を呈す。
「一般の患者さんとは同列に論じられないにしても、『適応障害』であれば、ストレス因子が除去されれば6カ月以内に快復するはずで、療養が10年に及ぶというのは、この因子の見極めを誤っているか、或いはそもそも治療法自体が間違っているおそれがあります。セカンドオピニオンは、雅子さまのご快復に資するだけでなく、ご夫妻で病気と向き合っているというお姿が国民に伝わり、ひいては皇太子さまのためでもあると思うのですが…」
冒頭の山折氏は件の論文で、皇太子ご一家の「第二の人生」の場として「天皇家のまさに父祖の地であった」京都が相応しいと記している。
<その地に居を移すだけで、雅子さまのご病状もゆっくりと回復にむかうであろう。豊かな自然の環境に包まれ、自然な歩みのなかで快癒の実りを手にされるはずである>
現状のままでは、隘路は切り開けそうにない。
(終わり)


いかがですか?東宮家を応援している方々はもちろんのこと、皇室に関心があまりない方々でも、一読してこれほど不愉快になる記事はないとお思いになりませんか。

そもそも、次代天皇陛下になられる方=皇太子殿下に対して「退位しろ」と言い放つことのあまりの不敬ぶりを誰も咎めないという異常ぶり。山折氏の不敬記事が出た時点で、各界の有識者からもっともっと「山折論文」の異常性について指摘する意見が出てもよかったのに、当時の記憶ではそういうものはほとんど出てきませんでした。まるで「皇太子殿下はあそこまで言われても仕方ない」という考えの方がマジョリティであるかのような、不気味な沈黙・放置がなされていました。
今になって考えると、「皇太子ご夫妻を排除したい」と考える、やんごとなき方々への「忖度」だったのかとしか思えないのですが。

そもそもなぜ、「皇太子妃殿下のご病気」で「皇太子殿下」が退位をしなければならないのか。皇太子殿下ご自身にご病気などの問題があるならまだしも、全くそうではないのに「妻の皇太子妃の病気が治らないから夫である皇太子がその地位を退け!」とは、一体どういう根拠があるのか。
雅子様が公務をできない時でも、皇太子殿下はお一人で精力的に数多くの公務をなされていました(雅子様を理由に公務を休まれたことは一度たりともありません!)。
上記のように「妻の病気が夫の地位にも影響を及ぼす」というおかしな理屈がまかり通るのなら、もし仮にほかの妃や皇后が病気や障害で寝たきりになるなど動けなくなった場合には、天皇や親王もその時点で地位を捨てなければならないということになりませんか?あるいは妃の方が先に亡くなられる場合もありうるでしょう。
仮に、美智子様や紀子妃などがそうなった場合、天皇陛下や秋篠宮様にもその地位を捨てろと迫ることになりませんか?それとも上記のようなおかしな理屈は、東宮ご夫妻限定でしか当てはまらないとでも言いたいのでしょうか?こんなおかしな話はないでしょう。


改めて確認しますが、典範の皇位継承の不適格条項に、妻である妃の病気など含まれていません。

皇室典範
第三条 皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。

皇嗣=皇位継承(確定)者ご自身の問題だけが規定されており、どこにも「妃の問題」など書かれておりません。

山折氏は一体、何の法律の何条を根拠にして「皇太子妃が病気だから皇太子はその地位を退け」と言っているのか、意味不明です。もしかしたら法の根拠もなくいい加減なことを言っているのかもしれませんし、法律を知らない国民ならコロッと騙されてしまうのかもしれませんが。日本は法治国家である以上、法の根拠もなく勝手にルールを変えることなどできるはずがありません。

何度も言いますが、皇太子殿下は私事を優先して公務を休まれたことなど一度もありません(むしろ公務は秋篠宮様よりも多いです)。上記新潮記事も触れていますが、アドリブで記者の質問に答えられる皇太子殿下の臨機応変さは一朝一夕でできるものではありません。一方秋篠宮様は事前に用意された質問しか答えないということは、過去の記事でも明らかになっています。

また、皇太子殿下が記者らに対して「温かく見守ってほしい」とおっしゃるそばから、「セカンドオピニオンしろ」という記者の恫喝も本当にあり得ないことです。雅子様の主治医である大野医師との信頼関係を壊そうという不気味さを感じ、結果的に雅子様の回復をますます遅らせることを目的にしているかのようです。一体誰の差し金なのか?
上記記事の最後の方に出てきている、精神科医を自称している片田珠美氏ですが、この人は「患者をろくに見ないで勝手に病名を付ける」医師として、マスコミに重宝(?)されているようですね。こんな自称精神科医の戯言など聞くに値しません。本当に精神科医なのか?と疑いたくなるほど、医師としての姿勢がお粗末すぎます。「セカンドオピニオンを自分に聞いてくれ」アピールと取られても仕方ないように見えます。

そして、陛下・皇太子殿下・秋篠宮様の三者会談ですが、陛下の強いご意向を受けて羽毛田氏がセッティングしたとのこと。この羽毛田氏は両陛下に媚びへつらい、宮内庁長官を辞した後も「参与」という地位を得て、両陛下のそばに残ることを許されています。
やはりこの三者会談は、今上陛下のご意向で始まったものであることが分かりました。

この三者会談にはなぜか秋篠宮様もちゃっかり参加しているようですが、その理由が実に噴飯もの。
「夫婦一緒に公務に出られる秋篠宮ご夫妻の存在は重要」とは、非常に馬鹿げた話ではないですか。
平成は皇后陛下(美智子様)を伴う公務が目立っておりそれがまるで「伝統」のように言いふらされていますが、「后同伴の公務」などは伝統でも何でもないのです(「伝統」という単語を安易に用いすぎる最近の傾向、何とかなりませんかね?)
上記新潮記事も(后同伴の公務は)「新たなスタイル」と言いつつ「伝統」と言うのは矛盾ではないのか?と問い詰めたい気分です。記事を書いている記者もおかしいと気付かないのでしょうか。
「美智子様のやり方こそが皇室の伝統になるべき」という威圧感を感じて仕方ありません。昭和の時代は皇后陛下が必ずしも常に公務に同伴する形をとっていなかったのですから。

そしてこの三者会談ですが、これを今更「帝王教育」と考えるのは無理があるでしょう。そもそも皇太子殿下はお小さい頃から故・浜尾侍従から十分に帝王学を受けています。そしてこの三者会談に参加している筈の秋篠宮様ご自身が、「自分は帝王学を受けたことがない」と言ったということも報じられていますし、秋篠宮様が自らこのようなことを言うまでもなく、秋篠宮様に対する帝王教育は「匙が投げられて断念せざるをえなかった」ほど、ご本人にその適性がなかったということは少なくない国民が知っていることです。

そして改めて不愉快に思うのは、両陛下も秋篠宮ご夫妻も宮内庁もマスコミも、雅子様のご病気に対する理解がまったくないことです。雅子様の療養が長引いているのはまさにそういう「理解のない」環境が一向に改善されず、雅子様をご病気にして追いつめている当人たちにその自覚が全くないからにほかなりません。
むしろ大野医師はそういう悪環境の中でよく治療に当たっていると思うのです。そのような努力している主治医を、「セカンドオピニオンを聞け!」という圧力で雅子様から引き離そうという動きは、本当に不気味の一言しかありません。

上記記事の「陛下のミスリード云々」の下りは滑稽としか言いようがないですね。今まで皇室のミスリードを積極的に行ってきたのがほかならぬ両陛下であるのに。
「東宮家に常に非がある」
「第三子=親王誕生に尽力してくれた秋篠宮夫妻は偉い」
「自分たちの考え・行動こそ常に正しい、自分たちのしてきたことこそ皇室の「伝統」であり「正義」だ」
というミスリードをなさってきたのはほかならぬ今上陛下と美智子様ではありませんか。

陛下が病気を包み隠さず話すように、と仰ったのは、単に国民に同情してほしかったからではないのか?ということを率直に感じました。
そもそも、天皇陛下と皇太子妃殿下のご病気公表を同列に論じることこそおかしいのではありませんか?「陛下だって包み隠さず公表したのなら皇太子妃も同様にやれ!」と言うのは、間違っていると思うのです。
逆に言えば、雅子様の存在を天皇並みに重いものとして捉えていると考えることもできますが。

結論として、山折氏の論文から、「とにかく皇太子ご一家を皇位継承の枠組みから排除したい」勢力がいることが確実になったと言えます。そしてこの勢力は今でも継続して「機会」を狙っているように思えてなりません。
京都に行かれたらいかがか、という山折氏の言葉も、単に東宮ご夫妻を遠ざけたいだけのように見えます。

ちなみに山折氏は、創価学会をべた褒めし公明党の存在に意義があると述べていた過去があります。
そんな人物に皇室についてとやかく言われたくないと思いませんか?

※山折氏の「皇太子殿下、ご退位なさいませ」論文は、今のところ拙ブログで全文をご紹介する予定はございませんので、興味のある方は『新潮45』3月号をご覧いただければと思います。

陛下・皇太子殿下・秋篠宮 三者会談の目的は何か? 1~2011年時点でそれは既に始まっていた

今年初め、下記のようなニュースがありました。

陛下と皇太子さま秋篠宮さま 意見交換
2018/01/15 14:07

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00381947.html

皇太子さまと秋篠宮さまは15日午前、2019年4月末の退位が決まった天皇陛下との意見交換のため、皇居・御所を訪問された。
皇太子さまと秋篠宮さまは、15日午前11時前、皇居・半蔵門から、両陛下のお住まいの御所へ向かわれた。
陛下とお2人は、皇室の今後などについて、月に一度のペースで定期的に話し合いの場を持たれていて、2018年に入ってからは、初めてとなる。
陛下は、退位後、象徴として続けてきた全ての公務を新天皇に譲る意向を示されていて、皇太子さまや、皇嗣(こうし)となる秋篠宮さまの公務の分担などについて、意見を交わされたとみられる。
(ニュースここまで)

上記ニュースを見る限り、陛下・皇太子殿下・秋篠宮様は「月に一度のペースで話し合いをされている」ということです。

この「三者会談」がいつ頃から始まり、どういう目的で行われるようになったのか。会談の内容については全てが公開されているわけではありませんし、国民の大半がその内容の詳細を知らされることもないでしょう。
しかし、いくつかの雑誌が、この謎の「三者会談」について記事にしています。
まず、週刊ポストが2011年の時点で記事にしているのが確認できました。今回はその記事をご紹介したいと思います。

週刊ポスト 2011年3月18日号

特別寄稿 天皇、皇太子、秋篠宮が男だけで話し合われたこと

富岡幸一郎(文芸評論家)


昨年末、喜寿を迎えられた天皇陛下は今なお精力的に公務や宮中祭祀に励まれている。そのお姿に、2人の息子―皇太子と秋篠宮は何を想われているだろうか。皇太子のいわゆる「人格否定発言」や天皇陛下の「愛子と会う機会が少ない」というご指摘をきっかけに、父子のコミュニケーションが十分でないことが広く知られるまでに至った天皇家。しかし今、ふたたびの対話を始めているという―。

◆天皇陛下としてなさるべきこと

今年に入ってから天皇陛下と皇太子、そして秋篠宮の三人が集って話をする機会が増えているという。2月中旬に天皇が東大病院で検査入院をされ、冠動脈狭窄症との病名が伝えられたが、退院の翌日には国立国会図書館に行幸されるなど公務を休まれることはなく、宮中祭祀をことのほか大切にされるその姿勢にも変化はないご様子である。
昭和天皇の時代は、毎週水曜日に皇太子一家を招いて食事をしていたが、平成に入って秋篠宮、皇太子の順で結婚されてからは昭和時代のような毎週の夕食会はなくなったという。
とすれば、家族が一緒に会うのではなく、天皇と皇太子、秋篠宮という父と息子が会うというのは、特別の意味を持っていると言えるだろう。その男だけの会話の内容はもちろん分からないが、公務に関する事とともに、将来の皇室についての重大な決意を天皇が語られたとしても不思議ではない。
2月21日の誕生日記者会見における皇太子の次のような発言は、皇位継承という大きな責務を意識してのことはあきらかだ。

<五十代最初の年となった昨年のこの場において、私は天皇陛下のお言葉を引用しつつ、過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いをいたして、国民と苦楽をともにしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましいありかたを求め続けたいとお話しをいたしました。いまだ、道半ばであり、両陛下のなさりようを拝見しつつ、引き続き研鑽を積んで参りたいと思います>

天皇の公務については、かねてよりその多忙が指摘され、高齢でしかも病気も伝えられているのであれば、その見直しは当然であり、皇太子が代行をすることも考えられよう。現に皇太子自身も先の会見でこうも述べられている。

<皇太子として両陛下をお助けしなければならないと考えておりますが、両陛下のご公務のあり方については、宮内庁内部でも検討がなされているように、ご公務の内容を考慮することによって、両陛下に過度の負担がかからないようにとの配慮が重要であると思います。しかし同時に、このことは、天皇陛下として、なさるべきことを心から大切にお考えになっていらっしゃる陛下のお気持ちに沿って、進めるべきであると考えます>

皇太子は時代の変化と社会の要請に応えるかたちで「公務」に積極的に取り組むことの大切さを語っているが、「天皇陛下として、なさるべきこと」という言葉には、もうひとつ、より重要なものとして、歴代天皇が行ってきた「宮中祭祀」としての神事が含まれているものと思われる。
実は昭和天皇の時代、昭和40年代以降に新嘗祭(11月23日)などの祭祀が簡略化されていったが、昭和天皇自身は神事優先の伝統を重んじていたという。天皇は国と民が平安であるようにと祈る、そこにこそ皇室の意義と皇統の維持がある。昭和天皇のこの思いは、今上陛下に受け継がれ、天皇に即位された最初の新嘗祭としての大嘗祭のために、公務の合間を縫って6回の習礼(祭祀の所作についての練習)をされたという。
時代と共に伝統も変化していくものだろう。しかし、天皇として真摯に受け継がれなければならないものは何か。何を大切に考え行うべきなのか。皇室という家族のなかで、今、父と息子があらためて語り合う。「家長」という言葉は現代の世相からすれば遠い過去のものとなった感がある。それでも皇居に集い、女性や子供らの皇族は別にして男同士が語り合うなかに、この国の歴史と伝統の深い意義がよみがえる。

◆伝えるべき大切なものは何か

昭和天皇もまた天皇として、そして一人の家長として息子に語りかけた。昭和50年代のはじめ頃より、皇太子と浩宮は、昭和天皇の所へ月一回訪れて話を聞くようになったという。戦争と敗戦というこの国の未曽有の歴史を天皇として生きた先帝は、昭和史の最大の証言者であり、何よりもそれを父として息子たちに語らねばならないとの思いがあったのだろう。
保阪正康氏は『明仁天皇と裕仁天皇』のなかで、それは「口伝」であると言っている。

<昭和天皇は、自分が生きてきた時代はどんな時代だったかという話をし、あるいは臣下の者で信用できるのはどういう人間か、どういう人間が信用できないかというようなことも密かに語った節があった。いわばそれは口伝である。(中略)これは推測になるが、昭和天皇は、昭和の戦争の話になったときは、皇太子や浩宮との会話のなかでも涙を流したことがあったのではないだろうか>

師が弟子に奥義などを口づたえに授けることを口伝と言うが、天皇家においてはそれは父から子への帝王学の伝授でもある。そのとき皇太子にとって天皇は、まさに日本の歴史を貫く「天皇」という存在であり、同時に最も身近な肉親としての「父」でもある。

昭和61年、天皇皇后が昭和20年終戦の年に、日光に疎開していた皇太子に宛てた手紙を書き写したものが、元宮内官の手元に40年間にわたって保管されていたことがあきらかにされた。戦火が激しくなるなかで、宮内官は両陛下に託された手紙が届けるときに焼失する場合を考え、ひそかに書き写し保管していたのである。その手紙には、子としての皇太子にたいするこまやかな愛情が読み取れるが、終戦後の9月の手紙には「我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったこと」「我が軍人は、精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたこと」などと敗戦の原因を分析し、戦争の継続は「三種神器を守ることも出来ず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで、国民の種をのこすべくつとめた」とも記されている。天皇制の存続も不安な時勢のなかで、若い皇太子の気持ちを慮りながら、天皇としての歴史の決断をわかりやすい文面に置き換えて伝えようとの意志がよくあらわれている。

◆父性的な権威が喪失した戦後日本

戦前の日本人は、「国民」というよりは「臣民」であった。天皇の赤子(せきし)とも呼ばれた。天皇の肉声を聴くことなどなかったが(終戦の詔勅をラジオで聴くまでは)、庶民の家には皇室の写真が飾ってあり身近であった。西洋の君主制では、通常、戦争を主導し敗北を招いた王は、その国民によって糾弾され責任をとらされるが、日本の天皇は戦後に左翼勢力などによって戦争責任を追及されることはあっても、国民の大多数は、なお国家の人格的体現者としての天皇への一体感があった。8月15日の玉音放送への国民の反応は、むしろ国の家父長としての天子様とともに敗戦の衝撃と悲哀を深くするものであった。
もちろん、戦後、天皇の地位は現人神の存在から、象徴として憲法によって規定され、民法の改正によって「家父長」制度も改められた。個人の自由と政治の民主主義が、新しい戦後体制の基本となった。近代化と産業化の社会がそれに加えて、旧い「家」のイメージを解体させていった。それは必然的に父性的な権威の喪失をもたらした。皇室もまたそうした日本社会の流れのなかで存続させてきたのは言うまでもない。
しかし、今日、しばしば問題とされるのは、家族やコミュニティの崩壊が進み、共同体の意識の溶解が、バラバラになった個人の精神的孤独を強くもたらしている現実である。親と子の断絶である。父から子へ、子から孫へといった世代の連続性が見えなくなり、身近な者とのコミュニケーションすらも途絶えつつある。特別な歴史的存在であるとは言え、天皇家も例外ではないはずである。そのようなときに、皇位の継承というこの国の根幹をなす事柄に関して、父と子の間でどのような会話がなされているのか、その中味を憶測するよりも、その対話のなかで皇室という日本文化の古くかつ新しい源泉が保持されていくことを願わずにはいられない。

◆変化するものと不変なもの

天皇の病状を誰よりも心配されておられるのが皇后であろう。今上天皇を支えてこられ、戦後の新しい皇室と国民との一体感をもたらされたのは美智子皇后である。
昭和54年、妃殿下であった皇后が詠まれたお歌がある。

新嘗のみ祭果てて還ります
君のみ衣夜気冷えびえし

ご成婚前に天皇は「皇太子という立場で、公務は一切の私事に優先する」と美智子様に語られたという。この歌は、宮中祭祀の大切さ、貴さを、皇太子妃として歌いつつ、夫としての「君」の「み衣」が夜気に冷く濡れているのを気づかう妻としての心の思いが表現されている。それは妻であり、また母である女性の豊かな情感であり、天皇と共に皇統の歴史を意味深きものとされる、この国の「母」としての責務と自覚である。
今上天皇は昭和天皇から、父親としての愛情を受け、そして昭和という激動の時代に皇位につかれた天皇として、国家の「父」としての歴史の証言を伝えられた。昭和天皇が敗戦直後の昭和21年に詠まれた、

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ
松ぞををしき人もかくあれ

との歌は、国民への励ましと国家の再生を期した御製であったが、それはまさに次の世代へ、希望と期待と忍耐を継承せよとのメッセージであった。平成の皇室が、今国民に伝えようとしているものは何なのだろうか。皇室についてのTVなどの報道は、戦後の「開かれた皇室」ゆえもあって、時に芸能人のスキャンダルめいた興味本位のものになりがちである。しかし、天皇の公務の意味や宮中祭祀の大切さに、むしろこの国の民として思いをはせることの方が本質であり、さらに言えば喫緊の課題ではないか。

日本文化の国民的特色を、作家の三島由紀夫は「一つの形(フォルム)」であると言った。それは様々な芸術作品だけではなく、行動をも含む動的なダイナミックなものである、と。そして、その全ての日本文化の活動を包括的に映し出しているのが、まさに鏡としての天皇という存在なのだ。TPP問題などで、国内の農業のことがしきりに議論されているが、今上天皇が昭和天皇のあとをつがれて、自らお田植えをされ、この情報化と物質化の社会のなかで「稲」を守られていることを忘れるべきではない。ダイナミックな変化と発展のなかで、この国の文化の神髄としての不変性、一貫性が今日ほど問われているときはないだろう。だからこそ、皇室の行方から目を離せないのである。
(終わり)


富岡幸一郎氏が書いた上記記事は、会談の内容が公表されていないことを踏まえ、あくまでも「会談の内容は分からない」という姿勢をとりつつも「おそらくこのようなことを話し合われたのだろう」という推測に留めています。
2011年に入ってからこの「三者会談」が行われるようになったとのことですが、上記記事は秋篠宮様の存在にはほとんど触れず、今上陛下と皇太子殿下、そして昭和時代のことを中心に述べています。
そして、昭和帝が息子であり次の継承者であった今上陛下にお話しされたようなことを、今上陛下も皇太子殿下に同じようにお伝えしたいのだろうという予想をしています。
皇太子殿下は浩宮の時代から、昭和帝の薫陶を受けてきたことにもきちんと触れられていますね。このようなことからも、皇太子殿下は昭和帝から目をかけられ、話し合いの場に同席することを許されていたことが分かるのです。同時に、昭和帝はあくまでも「直系」の血筋を重んじ、弟君である常陸宮殿下や、浩宮様の弟である礼宮様の同席は許さなかったという“けじめ”を付けられていたということも窺えます。

一方、平成の会談はどうでしょうか。上記記事は秋篠宮様の存在にはほとんど触れられていませんが、今上陛下が会談の場に秋篠宮様を呼んでいることは事実であり、「直系の血筋」を重んじた昭和帝とは異なる姿勢を見せていらっしゃいます。
今上陛下がこのようなことをなさるから秋篠宮様が冗長するということは否めないでしょうし、「皇位継承権を持つ男性皇族」という基準で会談を開いているなら、常陸宮殿下をお呼びしてもいいのではないかと思ってしまうのです(2011年の時点では、三笠宮殿下も寛仁殿下も桂宮殿下もまだご存命でした)。

そして上記記事で気になったこと。「男だけでの話し合い」をメインに論じている割には、わざわざ美智子様の存在について触れている点。「男だけの重要な会談」を論じているなら、美智子様の下りは本来は不要だったはずです。
「家父長制」などについて触れている割には美智子様の存在だけを「特別視」していることに違和感を覚えました。出版界やテレビ業界には、どうしても美智子様を誉めそやす一文を入れなければならない決まりでもあるのでしょうか。

上記記事は「三者会談の序章」的位置づけの内容ですが、次回以降、三者会談の本当の目的について徐々にあぶり出す記事が続いていきます。
そしてこの会談こそ、現在問題になっている「生前退位」や「秋篠宮立皇嗣」へとつながっていることが分かります。

今後のブログ記事予定について

ここ最近、現政権とそのサポーター達のあまりの女性蔑視ぶりにうんざりし、どんなに秋篠宮様の人となりに問題があって皇嗣待遇にふさわしくないとここで述べたところで、現政権やその支持者は聞く耳を持たないだろうし(秋篠宮様が「男」であるならそれでいいのだ、彼の人格や人柄や素行などどうでもいいのだ、という思考停止を感じてしまうのです)、現政権の元では事態は良い方向には動かないのだろうか…と少し意気消沈しておりました。
数々のセクハラ・パワハラ事件を見ていても、加害者側の男性たちの人格や行いの酷さよりも、被害者側の女性たちに落ち度があると言いたげな主張が後を絶たないことにも失望しており、この国は予想以上に腐敗が進んでいたのだという事実を思い知りました。

拙ブログの今後の予定についてもどうすべきか色々考えましたが、「今上陛下の生前退位のドサクサ紛れでいつの間にか決まってしまった秋篠宮様の皇嗣待遇への疑問」という原点に立ち返り、「皇太子殿下や敬宮愛子様を差し置いて、秋篠宮様や悠仁様に皇統を移そうという謀反計画は既に数年前から始まっていたことだった」という問題を改めて取り上げることが必要だということを感じました。

皇太子殿下に退位や譲位を促す不敬な主張の跋扈、秋篠宮様を天皇にしたがっている勢力の存在、その先の悠仁様への皇位継承を確定させたがっている企み、平成皇室が陥っている危機など、数年前からの不敬で不穏な空気を雑誌記事は捉えていました。

まず手始めに、今上陛下・皇太子殿下・秋篠宮様が数年前から行われているとされる「三者会談」について書かれた記事をいくつかご紹介し、その会談の真の目的は何か、一体何が話し合われているのか等を改めて検証したいと考えております。
この三者会談こそが「曲者」だったと思わざるをえないからです。

秋篠宮ご夫妻「第三子」懐妊直後に出された画期的な記事 3~橋本治氏「男子をお産みになろうと危機は続く」

今回は、前回ご紹介した橋本治氏の論文の「後編」をご紹介したいと思います。
明治以降の因習を礼賛し男系男子カルト勢力が異様に幅を利かせ、男尊女卑思想やセクハラを全く悪びれない者たちが跋扈する現在、いっそう多くの方に目を通してもらいたいと願います。

婦人公論2006年4月7日号

緊急連載 紀子さまご懐妊と皇室典範の行方<後編>

男子をお産みになろうと、危機は続く
橋本 治


前号で「皇位継承は男系」という伝統は「幻」だと証明した。では、女性・女系天皇を認めれば問題は解決するのか?本当に「伝統を守る」こととは何かを論じ、現在の皇室に内在する危機の本質を明らかにする

◆皇室を長続きさせた女帝の「自信」

前号では、飛鳥~奈良時代の皇室と女帝(女性天皇)のあり方を詳しく見て、「皇位継承は男系男子が原則」というのは近代の思いこみであり、古代ではもっと実際的だったということを述べました。最大の原則は「天皇がトップに立つ」ということで、天皇が女性か男性かは問題にならなかった。
すなわち、古代日本の男性は、有能な女帝や皇后と、一緒に政治を進めていくことができた。いまの日本のトップにある男性はそれができない。女相手にまともな話ができるわけがないと思っていて、使える女性なら部下にしてやってもいい、という程度の認識かもしれません。
古代には、男女差別はなかったんです。60代の斉明天皇が軍隊を率いて九州まで行ってしまう。50代半ばの持統上皇は、大宝律令が制定されてから亡くなるまでの間、全国を巡幸して律令制度が隅々まで浸透しているかどうかを確かめている。どちらも女性で、当時としては大変な高齢なんだけど、これだけの行動力を示せたわけなんです。『日本書紀』や『続日本紀』のどこにも、「やはり女性はだめだ」なんて文章は一行だってありません。そもそも年若い天皇の指導者として「上皇(太上天皇)」のあり方を規定したのは持統上皇です。

ではなぜ称徳天皇以降、すなわち平安時代以降、長く女帝が出なかったのか。平安末期、鳥羽上皇が娘の八条女院を女帝にしようとした例もあり、少なくとも皇室には「女性天皇はだめ」という考えはなかった。それは、当時栄華を極めた藤原氏の都合だったと考えたほうがいいですね。藤原氏のやり方は、身分は低いが財産のある受領(地方官)層の娘を嫁にもらい、生まれた娘を天皇に贈って外戚となり、権勢を振るうというものでした。藤原氏にとって、天皇は男でなければだめだったわけです。
天皇は、藤原氏の婿になるような形で天皇として奉られる。だから、天皇を退位して上皇になる。そのことで藤原氏の牛耳る朝廷から独立し、別の権力を作ろうとしたのが、11~12世紀の院政時代です。
この院政の時代に源氏や平家といった武家勢力が台頭します。上皇のいる院の御所と、天皇を頂点とする朝廷と、命令系統が二つあるから、どっちがえらいのかが不明瞭な、多重権力の構図ができる。平家が栄えたと思ったら滅び、東国では鎌倉幕府が成立し、朝廷では天皇がいて、別に上皇がいて、どれが正統の主権者なのかは、そのときの力関係次第、というぐちゃぐちゃな状態になっていく。
この構図は江戸時代にまで持ちこされます。武士の家系は男系男子の継承を基本とするので、徳川将軍家もそうなります。でも、大奥では「将軍のご生母様」がデンと構えていて、老中より権力を持っていたりしたわけです。
それが19世紀になって黒船が来航し、幕末の動乱を経て成立した明治政府は、「近代」という外圧のなか、「自分たちなりの近代日本の形を作らなければならない」と考えて、男性の「戸主」を中心とする家長制度を作ります。皇室も、現行の「皇室典範」で男系男子への継承しか認めなくなった。
それは、ある時代の一つのあり方だったんじゃないか、と私は思います。「男系男子に限り」という原則を立てるなら、そのためには、母親候補の複数の女性を存在させることが必要なんです。幸い、代々の皇后に男子のご出産はあって、「男系男子が生まれてこなかったらどうする?」という疑問は必要なかった。でも、現実にそれを考える必要は生まれてしまった。日本の皇室がこれだけ長く続いてきたのは、変な原則に拘泥せず、フレキシブルにやってきたからだということを、もう一度考え直すべきだと思います。

源平合戦の時代、追いつめられた平家は、幼い安徳天皇と三種の神器を持って西海に逃げます。在位の天皇が都からいなくなったその時、後白河法皇は「かまわん、ほっとけ」とばかり、さっさと孫の後鳥羽天皇を三種の神器なしで即位させてしまう。
さらに鎌倉時代になり、上皇が武力で幕府を倒そうという動きを見せると、幕府側は「主上御謀反」と言った。治天の君である上皇が、新興勢力の武家に「御謀反」をする。「謀反」に敬語がつくという、常識では考えられない発想を平然と口にする日本人の政治に対する思考の柔軟さは、天才的です。「御謀反」を起こした上皇様が敗れて流罪になっても、天皇制そのものは残るわけです。
「天皇以外に政治の補佐役は必要だ」というのは、持統天皇以来の伝統です。持統天皇が孫の文武天皇に譲位した後も同格の上皇として国政に関わって以来、天皇と、天皇経験者である上皇とのツートップで支配する形が当たり前とされた。別に持統天皇は、未来に続くルールとして決めたわけではありません。「私が孫を守る!」という思いと、「私は国政を担当する!」という自信が、後に続く二重構造を作った。結果として、そういう持統天皇の「自信」が、日本という国のなかで、皇室を延命させてきた。日本とは、まず目の前の現実があって、理屈は後からついてくる国だったのです。

◆敷居が高すぎる現在の皇室

現代の最大の問題は、皇室という特殊な環境に生まれた方々が、男女を問わず、配偶者が簡単に見つかる状況がないということです。結局、そこに行き着きます。
現在の皇室は妙に敷居が高すぎる気がします。1950年代、今の陛下の弟君である常陸宮殿下は、「火星ちゃん」という愛称を付けられ、そんなタイトルの漫画まであった。そのくらい親しみがあった。そんななか、『ローマの休日』(53年)が公開された。オードリー・ヘップバーン扮する王女が民間の世界に飛び出していく映画です。その数年後の美智子さまご成婚は、民間人(私たち)の代表が、王子さまお姫さまのいらっしゃる世界に入っていった。逆のパターンだけれど、『ローマの休日』のロマンチックな物語が身近に起こったので、いわゆる「ミッチー・ブーム」が起きたんですね。
美智子さまは「耶蘇の娘」などと非難されたり、苦労もなさったらしけど、昔の方だから、まず嫁ぎ先に慣れなければという覚悟を自然にお持ちになったと思います。実際、一度もお里帰りをされていない。一方、雅子さまは「働く女性」だった。しかも外務省北米二課という超エリート。「働く女性」が当たり前になって、もう一度、女性が自然に活動していた古代のあり方が見直されるのです。
8世紀の光明皇后は、民間出身であっても、聖武天皇の補佐役として十分な存在理由を示していた。いまの皇室に光明皇后みたいな方が入っても、「そんなことはなさらないで」と周囲から行動力を制限され、神経が参ってしまうかもしれない。それって、ノーマルな状態なんでしょうか?
「皇位継承は男系なのが伝統だ!」と、歴史の事実からかけ離れた観念だけが声高に叫ばれると、皇室そのものが現実から遊離しかねない。
皇室とは一つの「家」です。天皇は「天皇家」の長で、それが長く続いてきた「万世一系」というあり方の根本です。人間は結婚して「家」を作る。結婚だけならば、男と女という二人の問題なのだけれど、「家」とは本来は、子供を作り、後世に伝えていくというものだった。大阪・船場の繊維問屋は、山崎豊子の小説『女系家族』の舞台ですが、甘やかされて育った男子ではなく、優秀な番頭を入り婿に迎えて家を継いでいくわけです。すなわち、ここでいう「家」は法人に近い。
会社のような法人組織を維持する上で、ある程度、私的な感情を抑えるのは当たり前ですが、かつては「家」もまた、絶やしてはいけないものとされていた。しかし現在の「家」は、愛情などの私的な感情で結びついているものとされていて、その結果、むき出しの個人感情がぶつかりあう場になりがちで、そのなかで「家」という社会単位の意味が薄らぎ、同時に人間の社会性も薄らいでいる。

◆内親王をデートに誘えますか?

現在の皇室の問題は、このような社会的風潮のなかで「どうやって皇室という家を維持していくか」です。お妃や内親王の結婚相手を民間に求めるのなら、まず、社会全体の問題として、「家」とはなんなのか、そこから考えてみないことには、解決はつかないはずです。
日本の皇室だけではありません。英国の王室には「王族としか結婚できない」という内規があったんですが、第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパの他の国の王室から配偶者を迎えられず、英国王室が絶えてしまうかもしれないというので、民間人との結婚を許可した。それを認めなかったオーストリアのハプスブルク家は消えてしまった。ダイアナ元皇太子妃がチャールズ皇太子と結婚した結末は、ご存じのとおりだけれども、「特殊な世界に嫁(婿)に行くということのプレッシャーに耐えるのは嫌だ」という風潮はもはや世界的で、「王室」というものが存続しにくい時代になっている。
一般国民だって、ナンパと合コンと出会い系サイトなしに、パートナーとなりうる異性に巡りあう機会は限られてしまうでしょう。まして皇室となると…。黒田清子さんも、お相手が兄である秋篠宮殿下の同級生という縁があったからこそ結婚が成り立った部分があるはずです。内親王に気楽に電話して、デートにお誘いできますか?無理でしょ。
たとえ、いまご懐妊の紀子さまが男子をお産みになっても、皇太子妃のなり手が見つからなければどうします?皇室典範を改正して愛子さまが皇太子になっても、すんなりお婿さんが決まるかどうかは分からない。皇室のあり方を考えないと、「お世継ぎ問題」はいつでも起こりうるんです。結婚は両性の合意に基づくというのが現在の常識です。そこで、皇室に「自由恋愛」はありうるのかという問題だって起こりかねないんです。
天皇というものは、公的な存在です。でも、人間である以上、私的な部分だってある。周囲の思いこみによって、皇族には私的な感情が許されないままでは、今後も同じ危機は繰り返されるばかりです。古代の女帝の行動や発言は、現在の皇族の方々よりもはるかに人間的でしょ。そういう実際性があって、皇室は連綿として続いてきた。近代以後の浅い「伝統」でがんじがらめにせず、もう少し人間的な環境にしたほうが、皇統の維持のためにもいいのではないでしょうか。
たとえば英国の王室は、日本の皇室と同じく公的な性格が強い。だからこそ、スキャンダルが続いている。一方、オランダや北欧の、王室の方でも気楽にデパートに行ける国では、かえて問題が起こっていない。カートを押してお買い物もし、公的行事になれば正装して宮殿で手を振るというふうに、パブリックとプライベートの使い分けができている。
公私が一体化した状況に押し込められた方の言動が、「人格を否定されて、かわいそう」なのか、それとも「皇室の一員であるという自覚に欠けて、わがまま」なのか、線引きすることすら難しい。そんな状況で、皇族はどうあるべきかなんて、論じるだけ無駄というものです。

◆もっと素直にフレキシブルに考えよう

見方を変えれば、なぜ、そこまでして皇室を残さなければならないの?という疑問も出てくるかもしれませんが、私は「そこにあるものは、必要だから、ある」と考えます。「そこにあるものは、あってはならないものだから、なくしてしまえ」となると、ロシア革命後のソ連じゃないけれど、大きな問題が起こる。「そこにあるもの」が存在意義をなくすには、長い時間がかかるものなんです。
繰り返しますが、今回の議論の多くは、明治時代にはじまった近代天皇制を、古代から連綿と続く揺るぎないルールであるかのように錯覚しているのです。
かつての天皇のほうが、もっと人間的な環境に置かれていた。女系か男系かという区別はなくフレキシブルな継承が行われていた。女性でも、しかるべき人なら天皇になれたし、天皇になってしまえば、文句なく「優れた天皇」になったのです。そういう時代があったことを認め、その上で今後のあり方も考えるべきです。しかし、どうも日本の政治家は、そのあたり素直になりにくい人たちが揃っているような気がします。

今回の皇位継承問題は、論理に縛られず、今ある皇室の現実、社会の現実を認め、とりあえずいちばんいい方法をフレキシブルに考え、女性・女系天皇を認めるなら認め、それでトラブルが起こったら、他の解決方法を考える、という当たり前の発想に戻って議論されるべきだと思います。
(記事終わり)


上記橋本氏の論文は一部認識の誤りはあるものの(美智子様が一度もお里帰りをされていないというのは誤りで、実際は美智子様は結婚後早々にお里帰りを許され、その後も雅子様よりも多く実家との交流を継続されていました)、おおむね内容には賛同します。
面白いのは「内親王をデートに誘えますか?」の箇所で、小室圭さんを連想せざるをえないことですね。彼は果敢にも(?)内親王である眞子様に声をかけ、デートを重ねてきたツワモノでした(笑)。これは小室さんの肝っ玉の太さもありますが、眞子様が内親王の割には庶民的で敷居の高さを感じない方であったという要因も大きいと思います。ただ、橋本氏は現在の眞子様・小室さん問題までは予想していなかったでしょうし、橋本氏が指摘している「皇室における家と個人の問題」についても考えさせられる状況が生まれています。眞子様個人の思いを優先させるなら結婚を認めてあげるのが筋だと思うし、「家」というものを重視して個人の感情だけではどうにもできないと考える人は、眞子様の希望など後回しにするでしょう。

「皇位継承や皇室のあり方をもっとフレキシブルに考えるべき」という点は重要だと思います。実際、美智子様は皇后という立場にありながら、今上陛下よりも話題になったり目立ったりすることが多い方です。ご本人もそれをよく分かっておいでの上で行動されているように見えてしまいます。一時、美智子様は「女帝」とか「女社長」と揶揄されたこともありましたが、それだけ美智子様の積極的な行動が放置されてきたのだと思うのです。
美智子様のご活動はここまで黙認されていながら、なぜ雅子様や敬宮愛子様にはそれが許されないのでしょうか。橋本氏の指摘するように、皇后や皇太子妃をはじめ、女性皇族の活躍をもっとフレキシブルに認めるべきであるなら、それを全ての女性皇族に開放するべきなのです。現在は美智子様のご活躍だけが異様に絶賛される一方で、雅子様は結婚当初から籠の鳥にされて海外で活躍させず、敬宮様は女帝に即位することが許されていません。マスコミが取り上げるのは秋篠宮家の女性皇族の活躍ばかりで、ほかの宮家の活動は大々的に報道しません。こういう偏りが、平成皇室に対する偏見を招いていると思います。
橋本氏が「今の皇室は本当に国民に開かれているのか?敷居が高すぎないか?」と指摘しているのも、一部の女性皇族だけの活躍のみ許容され、皇室報道に偏りが生じていることも大きな原因でしょう。

「フレキシブルな皇室」という面で、例えばこのまま男系男子カルトの主張だけが通ってしまい、秋篠宮様の立皇嗣により無理やり秋篠宮系統に皇統が移ってしまい、秋篠宮様と悠仁様が「男系男子」ということだけを笠に着て好き勝手なお振舞いをしたら…そして国内外で皇室や日本国に対する敬意も何も失われてしまったら…その時、日本国民や海外の熱烈な希望によりふがいない秋篠宮様と悠仁様を排除し、正統な直系のお血筋である敬宮様を「元の正しい場所」にお戻しし、玉座に座っていただく…ということもあって良いと思うのです。
既に民間人として生きている旧皇族とやらの人々を皇族復帰させるなんていう考えをしている連中もいるわけですから、いったんは皇統から外れたように見える敬宮様を「本来の正しい場所=玉座」にお戻しすることが、当然あってもいいはずでしょう?

明治以降の因習にとらわれ、柔軟な考え方ができなくなっている勢力が跋扈している今の日本こそ、12年前の笠原英彦氏や橋本氏の論文に価値が出てくると言えるでしょう。

秋篠宮ご夫妻「第三子」懐妊直後に出された画期的な記事 2~橋本治氏「男系継承の伝統は幻である」

今回は、以前ご紹介した拙ブログ記事
秋篠宮ご夫妻「第三子」懐妊直後に出された画期的な記事 1~笠原英彦教授「典範改正議論はやはり必要」
の姉妹編として、橋本治氏が書いた女帝賛成論文をご紹介したいと思います。
時期的に、紀子妃の第三子妊娠が発覚した時に出されたものとなっています。

婦人公論2006年3月22日号

緊急連載 紀子さまご懐妊と皇室典範の行方<前編>

「男系継承の伝統」は幻である
橋本 治


「有識者会議」の「女性・女系天皇」を認めようとの提案に、「皇位継承は男系が原則」と保守派は反対する。だが、本当にそうなのか?
緊急連載第一回は、古代の女帝のあり方を論じ、皇室典範論の虚偽を粉砕する

◆「皇位は伝統的に男系承継」という原則は本当か

昨年11月、「皇室典範に関する有識者会議」が、「女性・女系天皇」を容認する報告書を発表し、それ以来、侃々諤々の議論が続いています。
そもそも、この「有識者会議」が結成されたのは、皇室が断絶の危機にあるからです。皇位継承権を持つ宮様方の家には女子しか生まれていない。明治22(1889)年に制定された「皇室典範」では、天皇に即位できるのは「男系男子(父が皇族の男子)」に限るとされていて、(懐妊中の紀子さまが男子をお産みになれば別ですが)皇位継承者がいなくなってしまう。だから「女性・女系天皇」を認め、皇太子殿下の長女・愛子内親王に皇位を継承させ、そのお子様が後を継げるようにしよう、というわけです。

これに対して保守派から、古来、皇室は「男系」で継承されてきた。過去には女性天皇が存在したが、男系継承を守るための、やむをえない“中継ぎ”だった。男系継承の伝統を維持するため、別の策を考えるべきだ、と反対の声が出た。
問題は、「女性・女系天皇」容認派は「伝統に拘ってる場合じゃない」と言ってるだけで、「皇室は男系継承が伝統的なあり方」という点で反対派と一致していることです。
日本史上、女性天皇(女帝)は、古代に8代6人(うち2人は2度、即位)、江戸時代に2代2人いますが、ここでは古代に話を絞ります。史上最初の女帝・推古天皇から称徳天皇までを歴史事典に載っている系図で見ると、確かに女帝の次は途切れている。古代は、政治的経験を積んでそれなりの年齢に達していなければ天皇になれないという不文律があり、血筋的には天皇になるべき皇子がまだ幼い場合にのみ、女帝がリリーフとして起用され、その皇子が成人になるのを待って譲位した、と説明されていますが、果たしてそうか。
図1の系図には「后(皇后)」が書かれていないでしょう。この時代は一夫多妻制ですが、「后」は皇族女性に限られ、それ以外は「妃(みめ)」として区別されていた。この「后」が重要なポイントなんです。

20180326_222509.jpg
(図1)

◆「皇后」は天皇を代行する能力を求められていた

図2-1、図2-2の、「后」や「妃」を含めた系図は私が作ったものです。この系図と見比べながらお付き合いください。まず、右上のほうにある継体天皇(450?~531)のあたりにご注目。

20180326_222516.jpg
(図2-1)

20180326_222532.jpg
(図2-2)

継体天皇が即位する前に、皇統はいったん断絶しています。前代の武烈天皇は子供を作らないまま崩御し、皇位を継ぐべき男子がいなくなった。そこで実力者の大伴金村が、越前(福井県)にいた遠縁の皇族を連れてきた。現在、「女系天皇」反対派が、戦後、皇室から離れた旧宮家を復活させ、そのなかから男子を後継者に選ぶという方法も検討せよ、と主張していますが、ちょっと似てますね。
ところが当時の大和朝廷の豪族たちは、一斉に反対した。結局、武烈天皇の父・仁賢天皇の娘である手白香皇女を皇后として迎え、そこで生まれた皇子を皇位継承者とするという妥協案が出て、やっと認められ、継体天皇になるわけです。
継体天皇の崩御後、後継者争いが起こります。継体天皇が地方豪族の娘に生ませた長男の安閑天皇と、手白香皇女に生ませた欽明天皇(509~571)が同時に即位し、対立する事態になった。面白いのは安閑天皇が、仁賢天皇のもう一人の皇女で、手白香皇女の異母妹の春日山田皇女と結婚していることです。安閑天皇は即位して2年目に崩御、弟の宣化天皇が後を継ぎますが、やはり仁賢天皇の皇女・橘仲皇女を皇后に迎えた。
宣化天皇も4年目に崩御、欽明天皇は30余年という長い安定した治世をまっとうします。武烈天皇の死に始まった皇統の危機が、手白香皇女という「后」を経由し、仁賢―手白香―欽明という女系で皇室継承が保たれたわけで、継体・安閑・宣化は入り婿、“中継ぎ”なんです。
現代に当てはめますと、(紀子さまが男子をお産みにならなかった場合ですが)旧宮家を復活させてしかるべき男子を選んだとして、国民感情として納得できるだろうか。でも、愛子内親王と結婚させ、生まれた子を皇太子とすれば、現在の陛下へ受け継がれてきた血筋は守れるから、受け入れられやすいのではないか、という話です(愛子内親王のご承諾という高そうなハードルがありますが)。

ところで欽明天皇は即位した際、「私は未熟なので、亡き安閑天皇の皇后だった春日山田皇后(皇太后)に政権を担当してもらいたい」と申し出てます。欽明天皇は31歳(数え、以下同)でしたが、春日山田皇后のほうが「百揆に閑いたまえり」、政治的経験を積んでいて統治者としてふさわしいと述べたのです。
現代の日本人は「国家を統治するのは男性であり、女性がその地位につくのは特別な理由があるからだ」と思いこんでいて、「女帝中継ぎ論」が出てくるわけですが、古代人は「女性ではいけない」という考え方はしていなかったんですよ。(おそらく妊娠出産等の生理的な理由から)天皇は男性のほうがいい、という実務的な考えはあったでしょうが、皇后もまた、天皇を代行しうる能力が求められたのです。
実際、史上初めて女帝となった推古天皇は、欽明天皇の後を継いだ敏達天皇の皇后でした。敏達の後を継ぐべき押坂彦人大兄皇子は早世したらしく、その後、朝廷内で精力を伸ばした蘇我氏の血を引く用明天皇、崇峻天皇と、異母弟たちが即位しますが、用明天皇は即位2年目で亡くなり、崇峻天皇は暗殺される。天皇にふさわしい年齢の皇子がいなくなった。
そこで推古天皇(554~628)が群臣に推されて即位する。遠縁の「男系男子」より、「正統なる先帝の后」のほうが適任とされたわけです。実際、推古天皇は36年の安定した治世をまっとうします。
推古天皇崩御後、押坂彦人大兄皇子の子の舒明天皇が即位し、皇位は手白香皇女の血を引く、欽明―敏達―(押坂彦人)と続く正統の皇族に戻りますが、13年の治世を経て崩御すると、その皇后が、二人目の女帝・皇極天皇として即位します。

◆二人目の女帝・皇極天皇は「女」をバネに突っ走った

この皇極天皇の御代に、有名な大化改新(645年)が起こりました。皇極天皇の両親は茅渟王と吉備姫王、皇子や皇女と呼ばれる方々よりランクの落ちる皇族です。蘇我氏は、格下王族出身の「先代の未亡人」を立てておいて、専横を極めた。これに対し、先代の子である中大兄皇子が叛乱を起こし、自ら皇極天皇の御前で蘇我入鹿を斬殺する。わが子が手を血で汚すのを眼のあたりにした皇極天皇は、弟に位を譲ってしまう。
皇極天皇は推古天皇と同様、「しっかり者の未亡人」的存在でした。ところが、いざ弟に譲位してから豹変します。
それまでの天皇は、神社のように質素な板葺の宮に住んでいた。しかし、姉から譲位された孝徳天皇は、格式を破って、都を飛鳥から難波(大阪)に移し、大阪湾を見霽かす、豪華な宮殿を建てた。孝徳天皇は外国かぶれで、壮麗な宮殿を建てて贅を尽くす中国皇帝を真似したんでしょう。先の皇極天皇は、長男の中大兄皇子、次男の大海人皇子、さらには孝徳天皇の皇后になっていた娘の間人皇女まで引き連れて飛鳥に帰ることになる。「自分は知らなかったけど、天皇にはこれだけの力があったのか」と気づいたんでしょう。
孝徳天皇がその直後に亡くなると、彼女は重祚(2度目の即位)して斉明天皇となり、弟に張り合って大土木工事を始めます。近年、飛鳥でその跡が発掘されて、彼女の宮殿周辺は、水路が張り巡らされ、石造りのモニュメントが並ぶ壮麗な都だったことが実証されました。
さらに、朝鮮半島で日本と同盟関係にあった百済が、唐と新羅の連合軍に攻められ、救済要請が来ると、60代半ばの女帝は「私が行きます!」と軍船に乗り、九州の前線基地まで行ってしまう。
斉明天皇は傀儡で、実質的に仕切っていたのは後に天智天皇となる中大兄皇子だったと言われていますが、50歳をすぎて天皇であることの凄さを実感した女帝が、前向きに突っ走ったと考えるほうが自然です。斉明女帝のあり方は、現代の中高年女性のあり方とそっくりです。
斉明天皇が九州でほどなく崩御し、朝鮮半島に攻め入った日本軍が白村江で大敗北を喫すると、中大兄皇子は内政に転じ、都を奥地である近江(滋賀県)に遷す。むしろ、母親と比較して、後ろ向きで慎重な息子なんです。

◆持統・元明・元正 女帝たちの「女のエゴ」

斉明天皇の後を継いだ天智天皇が亡くなると、その子の大友皇子と、弟の大海人皇子との間に後継者争いが起こり、いわゆる壬申の乱が勃発します。大海人皇子が勝利し、即位して天武天皇となる。
興味深いのは、天武天皇の御代に「宮廷に出仕したい者は、男女を問わず申し出よ。女性の場合、夫の有無や年齢を問わず、採用基準は男性と同じにする」という、男女共同社会参画法案みたいな命令が出されていることです。天武の皇后である鸕野讃良皇女は、『日本書紀』に「天皇を佐けまつりて天下を定めたまう」とあり、実際、おおいに手腕を発揮していますが、彼女のための女官を募集したのでしょう。
その鸕野讃良皇女にはひとつだけ煩悩があった。我が子である草壁皇子を天皇にしたかったんです。天武天皇は多くの妃を持ち、子供もたくさん産ませています。いわば彼女は、姉や他の妃たちとの寵愛争いのまっただ中にいた。『大奥』みたいな話ですが、天武天皇崩御の直後、彼女は後継者争いのライバルになりそうな姉の腹の大津皇子を、謀反の疑いをかけて処刑した。ところが、そこまでして皇位につけたかった草壁皇子がほどなく急死してしまう。
そこで鸕野讃良皇女は自ら即位して持統天皇になり、飛鳥浄御原令施行、戸籍制定(庚寅年籍)、藤原京造営と八面六臂の大活躍をした後、草壁皇子の忘れ形見である15歳の珂瑠皇子に譲位、その後も「太上天皇(上皇)」として、即位した文武天皇を補佐し、702年、大宝律令を公布し、律令国家の体制を整えた。史上初の「院政」を行ったわけです。その年、持統天皇は亡くなります。
ところが、その5年後、文武天皇が25歳の若さで崩御します。その子の首皇子はまだ7歳。そこで即位したのは元明天皇、文武天皇の母で、亡き草壁皇子の妃だった人です。8年後、彼女は55歳で譲位しますが、15歳になった首皇子は人見知りが激しく、まだ表舞台には出せないからと、元明天皇の娘である36歳の元正天皇が即位します。9年の治世を経て、やっと首皇子が即位し、奈良の大仏で有名な聖武天皇となった。
形だけみると、持統、元明、元正の三女帝は、珂瑠皇子や首皇子が成人するまでの“中継ぎ”に見えなくもない。しかし、他に男系の皇子として天武天皇の長男の高市皇子や、その子の長屋王などがいた。2人とも朝廷を代表する実力者で、男系継承が本来のルールだったならば、彼らが天皇になってもおかしくない。何故、持統、元明、元正と3人の女帝が立ったのか。ヒントは元明天皇が即位したときの詔にあります。
「持統天皇は文武天皇に皇位を譲り、二人並んで天下を治めてこられた。これは天智天皇が定められた永遠に変わることのない不改常典に基づくものである」
この不改常典とは何か。具体的には、「皇位は親から子へと受け継がれるのが、わが国古来の法である」というものです。しかし、そんな法が本当に存在していたのなら、天智天皇の崩御後、その長男を死に追いやって即位した、弟の天武天皇はなんだったてことになる。これが「天武天皇の定めた」なら分かりますが、なぜ、「天智が定めた」とされたのか?
図2-2の系図を見てください。持統天皇も元明天皇も、実は天智天皇の娘ということで共通しているんです。そして、元明天皇の子である文武天皇や元正天皇は、“女系”で天智天皇と繋がっている。つまり元明天皇は、「天智の娘である私は、天智が定められた法に則って、私の娘に譲位する」と宣言した。すなわち「天智の血を引く私たち以外に皇位は渡さない!」というわけです。そこにあるのは「男系」か「女系」かといった原理原則ではないんですよ。

◆光明皇后と孝謙女帝 現代的すぎる母娘関係

聖武天皇の後継とされたのは、光明皇后との間に生まれた皇女、阿倍内親王、日本史上唯一の女性皇太子です。
光明皇后は、この頃台頭してきた藤原氏の出身、初の民間出身皇后で、「悲田院」「施薬院」
といった福祉施設を建設するなど、実力ある女性です。聖武天皇には他にも子供がいたけれど、藤原氏は皇位継承者にも、同族の血を引く阿倍内親王を押し込んだわけです。
ただ、これまでの女帝の多くは「先帝の后」でした。例外は元正天皇で、病弱で婚期を逃したらしく生涯独身なんです。即ち「既婚者の女帝」はいても「女帝が結婚する」という前例はなかった。そういうわけで、阿倍内親王は一生独身で通すことを暗黙の前提にして皇太子になる。
彼女には、当時第一級のインテリである吉備真備が家庭教師につけられ、優秀な母親の期待を一身に背負ってエリート教育を受けています。32歳で即位して孝謙天皇になり、9年後に淳仁天皇に譲位しますが、理由として「お母様に孝養を尽くす時間がないから」と述べるほど母親孝行な娘でした。
ところが譲位して4年後、母親が亡くなって2年後、突飛な行動に出ます。「淳仁天皇は私をちっとも敬わない。今後、小さな案件は天皇に任せるが、国家の大事は上皇である私がやる!」と宣言。さらに天皇の腹心・藤原仲麻呂を謀反人として追討、淳仁天皇を廃し、重祚して称徳天皇となり、病に倒れたとき加持祈祷をしてくれた縁で恋に落ちた道鏡という僧侶を取り立てる。
孝謙天皇が即位した後も、母の光明皇后は、皇后を補佐する紫微中台の長官となった藤原仲麻呂とともに、持統天皇が孫を後見したように国政に関与していた(父の聖武天皇は怨霊をおそれて遷都を繰り返すなど、精神不安定で、譲位後は存在感を示していません)。野心家の仲麻呂は、皇后のご威光を楯に権力を拡大しますが、孝謙天皇は「お母様は仲麻呂とともに、私を支えてくださってる」とありがたがっていた。
だが、譲位してみると、誰も彼女に敬意を払わない。淳仁天皇は、仲麻呂の死んだ息子の妻をめとり、仲麻呂の邸に住んでいました。いわば仲麻呂は、もはや皇位にはない孝謙を無視し、“子飼い”の淳仁天皇と好き勝手をしている。彼女の気持ちを忖度するとこうです。「私はお母様に言われたとおり学問に励み、皇太子になり、独身を貫いてきた。挙げ句、世継ぎがないという理由で譲位させられ、蔑ろにされる。私はお母様と仲麻呂に利用されただけ?」
かくしてエリート女性の逆襲が始まります。重祚して2年目の秋(765年)、道鏡を太政大臣禅師に任命し、年号を天平神護から神護景雲と改元します。光明皇后が立后した年に年号が天平となって以来、天平勝宝、天平宝字と一貫して元号には「天平」がついていました。その「天平」を外すことで、母親の呪縛を断ち切ったのです。48歳にして。
なんだか現代的すぎる母娘関係ですよね。彼女と道鏡の関係は、古代史上のスキャンダルですが、更年期間近になった女性が、「私だって子供を産んで、後継ぎを作る可能性がある」と考えての行動だと思います。結局、子供に恵まれることなく53歳で死去し、その後長く、女帝は絶えることになります。

◆古代のほうが現代より男女平等だった

お気づきかと思いますが、この時代には、女性をワンランク落ちるものだという思いこみが、まったくなかったんです。有能な女性は有能な者として遇され、国政を仕切った。男性であっても無能なら崇峻天皇のように平気で暗殺された。
では何故、女帝が絶えたのかは次回述べますが、少なくとも、たかだかできて100年の「皇位継承は男系男子に限る」というルールを皇室の伝統と思いこみ、歴史上の女帝を“中継ぎ”という例外として片付けてしまうのは、近代の幻想に縛られた発想なんです。
(つづく)


軽やかな口調で書かれた文章ですが、男系男子固執派には耳の痛い話が次々と繰り広げられ、古代の女帝たちの強さやたくましさと相まって爽快な気分にさせてくれる内容となっています。古代天皇の歴史がコンパクトにまとまっており、一読するだけで大まかな内容を掴むことが可能となっています。
古代は「男子だから~女子だから~」といった偏見も差別もなく、実力、能力、行動力があれば女性の活躍を認めてきた歴史があり、男子でも能力がなければ淘汰される時代でもあったわけです。そして橋本氏も指摘している通り、「男系男子継承の歴史」などたかが100年ちょい程度のものでしかないのです。

新天皇陛下の即位儀式の一部である「剣璽等承継の儀」に女性皇族が一切参加できないというニュースは「あまりにも時代錯誤」「新天皇陛下の一人娘である敬宮愛子様も参加できないのはあまりにもおかしい」という意見が噴出しました。
また、相撲の土俵の女人禁制問題にしても「伝統」だと言われていたものが実は明治以降の悪しき因習でしかなかったことが明らかとなりましたし、この国で頑なに「伝統」と言われていたはずの制度が、実は単に歴史の浅い男尊女卑制度にすぎないという実態が徐々に明るみになりつつあります。
それのみならず、音声記録まで残されている財務事務次官のセクハラ発言問題も起き、この国の女性蔑視の病理は予想以上に深刻な段階にあるということを改めて思い知りました。あまりにも醜悪で言葉がありません。

明治以降の男尊女卑主義をベースにした思想にとらわれている安倍政権の下で「秋篠宮立皇嗣」が一方的に短期間で決められてしまいましたが、そのような中で次々と上記のようなニュースが明るみに出てきたことに、何か大きな意義を感じてしまうのです。
代替わりを目前に控えた平成末期、「秋篠宮を立皇嗣させてはいけない、敬宮愛子様の即位を念頭に入れた典範改正議論をきちんとしなさい」ということを我々に促しているような、そんな大きな時代のうねりを感じるのです。

次回は、橋本氏の論文の後編をご紹介したいと思います。
プロフィール

キリアキ管理人

Author:キリアキ管理人
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR